昼休みの教室内は雑然としていて、他のクラスや他学年の生徒が入り乱れている。私もその一人ではあるけれどガールズトークを一頻り楽しんだあと、自身の教室へ戻るためその場をあとにした。

彼氏、その単語は女子の会話で最も頻度が高く、かつ色んな意味合いが込められている。今が盛りの楽しさも、終わりゆく恋路を思う悲しさも、それすらもない理想も。私にとってそれは今最も嫌悪するものであった。

高校三年生ともなれば恋の酸いも甘いも身をもって体感する年である。好きになった男は女たらしで、気がついたときには別に女を作っていた。愛しかったはずのその頬にビンタをお見舞いしたのはまだ記憶に新しい。とどのつまり、私は失恋して間もなかった。

早く新しい彼氏作りなよ。よくも簡単に言ってくれるものである。そう言われる度に心の中にどす黒いもやがかかっていくのを感じる。どうせまた誰かを好きになったって、私はあっさりと捨てられるに違いない。前の恋の傷は自分が思ったよりもずっと深く残っていた。恋バナに花を咲かすことができなくたって、いつか信じられるような人を好きになれるその日まで、自分と向き合うのも悪くはない。そう思っていたけれど、“その日”がいつ来るかなど到底わからないものである。それが例えば今日、あと数分後の出来事だとしても。

私の在籍する教室の入り口で、中を覗き込む少年に気がついた。背が高くすらりとした細身な体躯、黒髪の真ん丸い頭には見覚えがあった。誰かと話している様子はなく、彼がこの教室を訪ねてくる理由は一つしか心当たりがない。そして彼の目当てである人物が教室にいない理由を私は知っている。けれど目の前の少年にそれをどう伝えるべきか。教室に向かっていた足は、扉を潜ることもできずに止まる。
彼の目当てであり私の隣の席の犬飼曰く、この辻新之助という男はどうも女子への免疫がないらしく会話はおろか目を合わせることもままならないという。確かに初めて声を掛けたときあまりの無愛想さに驚いてしまったのを覚えている。彼を驚かせないよう、怖がらせないよう伝えるにはどうするべきか。考えあぐねていると彼、辻くんは踵を返す。彼を見つめていたばかりにばちりと目が合って、彼はすぐさま目を逸らし丸い頭を下げた。きっとすぐに逃げるだろうな、そう思っていたけれど彼は目を逸らしながらも真っ直ぐこちらに向かってきた。彼の珍しい行動を疑問に思いながら、よっぽど緊急を要するのかもしれないと思い声を掛ける。

「犬飼隣のクラスにいるんじゃないかな」
「いや、違います」

犬飼、という単語に彼は首を横に振った。犬飼に用でなければ彼は一体誰に会いに来たのだろうか。大人しくて人見知りな彼が、一学年上のこのクラスにいる知り合いといえば犬飼ぐらいしか見当がつかない。

「誰?呼ぼうか?」
「いや、あの」

いつもは必要最低限しか話さない、目も合わせない彼が自分になにかを伝えようとしていることにすぐに気がついた。しかし彼の用件が見当たらない。首を傾げていると、彼はほんの一瞬だけちらりと目線を合わせてくれた。

「みょうじさん」
「はい」

思わずこちらが畏まってしまうほど、彼は改まっている。辻くんと初めて対面したあと隣の席の男がかつて言ったように「辻ちゃんいつもあんなだよ〜」と、常日頃からそうだと言われればそんな気もしてくるけれど、それにしたって彼はいつも以上に畏まっている。一体なにを言われるのだろうか。というより彼が用があったのはまさか私なのか。未だに信じられないけれど、彼の様子を見るにやはりそうなのだろう。

「あの、好きです」

雑音に掻き消され、今にも消え入りそうな声だったけれど彼は確かにそう言った。昼休み終了間際、廊下のど真ん中、幸いにも彼との会話を聞いている者はいなくて、皆私たちの横をバタバタと駆けていく。
今、彼はなんて言った。確かに聞いたはずなのに、あまりにも突然の告白に頭の整理が追い付かない。白い頬を僅かに染めて、言うや否や口を閉ざしてしまった彼の様子を見るに、私の聞き間違いでも彼の言い間違いでもないことは明白だった。

「えっと、」
「すみません、失礼します」
「えっ!?ちょっと」

呼び止めるも、彼はさっさとその場をあとにする。廊下に響くのはチャイムの音と駆けていく足音、それらを聞きながら背の高い後ろ姿が見えなくなるまで目で追って、先程の彼の言葉を反芻する。

「おーい、どうした戻ってこい」

犬飼に声を掛けられるまで、ぼんやりと立ち尽くしていた。

2016.01.17

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