引っ越しの準備を手伝いたいという嵐山の申し出を断ると、彼は珍しく食い下がった。

「忙しいでしょ嵐山隊長」
「最後くらいいい格好させてくれないのか」

最後くらい、なんて、なにを言うのだろうかこの男。

「かっこよくない准なんて私知らないからもういいよ」
「俺がよくないんだ、頼む」

柔軟なようで、彼は意外と頑固な男である。たった数ヵ月でなにをわかったつもりでいるのかと言われても、私は知っている。好きだから、ずっとこの目で見て、この手で触れてきたのだから。

「仮にも元カノの荷物触るとか嫌じゃないの?」
「元カノって、俺たち別に嫌で別れるわけじゃないからな」

あんな一方的に別れを突きつけたというのに、彼は私を嫌いになっていないのだろうか。人を疑うことを知らない彼に一抹の不安を覚える。

「准がいつか悪いおねえさんに騙されないか心配になってきた」
「いきなりだな。なんでだ?」

自分で言っておいてどうかと思うけれど、彼に近づくものはこれからも清いものであってほしい。そして私の心配は杞憂に終わるはずだ。どんな悪意ある人間だって、彼の真っ直ぐすぎる人間性を前にして“まとも”でいられるはずがない。彼の余りある善意は悪意までも食い尽くしてしまうだろう。嵐山にはそうさせるような素質がある。それはもう、怖すぎるほどに。

「あっちでの仕事は決まったのか?」
「とりあえず何社か履歴書送って面接の連絡は来てる。一年未満で退学するような問題児受け入れてくれるかわかんないけど」

終わることは始まることだ。一方的に終えた責任が私にはある。私には勿体なさすぎるいい男を振ったのだ、幸せになれるはずはなくても真っ当には生きていかなければいけない。

「これで全部だな」

彼と出会うまでは質素に、ただなんとなくで生きてきた私には持っていくような荷物なんて大してなかった。生活に必要なお金と認印、家具なんてあっちで買えばいい。思い出なんて持っていったって身を焦がすだけだ。新しく揃えるものならたくさんある。新しいものに囲まれて、そうして始めていければいい。

「気をつけて行けよ」
「電車だから大丈夫だってば」

最後まで過保護で、最後まで心配してくれる、そんな彼を手放すことが惜しくないと言えば嘘になる。だけど私じゃダメなのだ。彼のそばにいるのは、私にはあまりにも荷が重すぎる。

「最後までありがとう」

真っ直ぐに彼の瞳を見つめる。相変わらず綺麗な色だ。南国の海を見たとき、夏の空を見たとき、もっというと夏が来る度に私はきっと彼を思い出してしまう。置いていくはずの思い出は、脳裏で大事に保管されている。忘れたくても忘れられるはずがない。こんなにも好きで、想うあまり離れることを決めるような人を私はいつまでだって覚えているだろう。

嵐山はゆっくり私に向かって手を伸ばす。抱き締めようとして宙をさまよって、覚悟を決めて伸ばした彼の腕を私は受け入れた。力強い、愛しくて堪らない腕だった。

「戻ってきたくなったらいつでも戻ってきていいんだぞ」

この期に及んで、迷わせるようなことを彼は言う。どこまでも優しいのに、もう苦しくなったりはしなかった。彼の背中に腕を回す。私はちゃんと彼を好きだった。そして彼の愛だって、ちゃんと伝わっていた。

「待ってるからな」
「ほんとかなー?邪魔物がいなくなったんだから明日から准モテて仕方ないって」
「それはないんじゃないか」

本当にわかっていない。彼はモテていないんじゃなくて、あまりの眩しさに女の方が声を掛けられないだけなのに。だけど彼らしい発想だとも思う。そして彼にはずっと、そうであってほしいと思う。

「そろそろ行くね」

名残惜しいように、彼の手が頭を撫でる。私はこの手の温もりも忘れないだろう。そしていつか、どうしようもなく恋しくなってしまうだろう。

「またな」

先程まで私に触れていた優しい手のひらが私に手を振る。「またね」なんて返せない、自分から別れを決めておいてそんなこと、言えるはずもない。だけどこんな自分勝手な私に彼は「またな」と言ってくれた。それを否定することなど私にどうしてできるだろうか。
彼の言葉に頷くと、彼は今の季節には似合わないような爽やかな笑みを溢す。次に会うことがあるのなら、そのときは。

「次会うときは夏がいい」
「来年のか?」
「なわけないでしょ」

私も夏の似合う女になったら、彼の元に戻ってもいいだろうか。どこまでも自分勝手な思想に嫌気が差すけれど、今この瞬間は彼を名残惜しく思う自分がいる。自分の気持ちに嘘を吐くのはもう、今日限りやめようと思う。彼のように真っ直ぐ生きられたのなら、彼のそばに自信を持っていられる私になったのなら、そしてそのとき彼が私を選んでくれたなら、そこからもう一度始めてもいいだろうか。

終わることは始まることだ。あの日、彼の優しさに身を焦がれて死んだ私は生まれ変わるために始めることを決めたのかもしれない。もう終わりを待つだけの秋じゃない。自分自身で終わらせたのだ、彼のそばにいたことで「今の自分ではいけない」と思えただけでも、少しだけでも私だって変われたはずだ。そう願いながら新たな土地を夢に見た。

苦しかったから、彼にいつかこの苦しみが伝染してしまわないようにと離れた。それは確かに私のエゴだろう。だけどその決断を揺るがせなかったのは、終わりを受け入れた上で、次の始まりを待ってくれる嵐山がいたからだ。それを期待したわけじゃない、だけど最後まで笑顔を絶やさない彼にまた会いたいと、離れたばかりなのにそう思う。
だからこそ今のままの私じゃだめなのだ。彼に見合うだけの理由を私は持ち得ていない。運命なんて信じてはいないけれど、例えばもしこれが運命なのだとしたら、今別れたとしてもいつかまた糸は繋がると思うのだ。そんな日が来ることを願いながら、やってきた電車に足を踏み入れた。
冬がすぐそこまで来ている。そんな気配を肌で感じた。
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