新しく借りる部屋は駅から少し遠く、その割に小さな安アパートに決めた。利点と言えば価格ぐらいで、それ以外は不便な部屋だったけれど私一人で暮らすには充分だ。駅から遠いなら遠いなりに早起きすればいいだけ、移動にかかる時間で、自分と向き合えばいい。
その小さな部屋に、今あるもの全ては持っていけない。なにが必要でなにを捨てるか、分別していくうちに気がついたのは全ていらないのではないかということ。必要ならまた揃えればいいだけだ。気に入っていたサンダルを捨てたとき、なにかとても取り返しのつかないことをした気がしていたけれどそれを期に気持ちが軽くなった自分がいた。身の回りが落ち着いたら真っ先に靴を買いたいと思う。素敵な靴は、私を素敵な場所にきっと連れて行ってくれる。私が正しく歩いて行くためには必要なはずなのだ。

あの嵐山准と付き合いだしたという噂は瞬く間に流れていったけれど、だからといってそれを糾弾するような人は誰一人としていなかった。
人気者と付き合えばどこぞの悪女がやって来て私に嫌がらせをしてくるだとか、嵐山の完璧さに嫉妬したろくでもない男が嵐山の弱味になるであろう私を使って彼を陥れようとするとか、そんなことは一切なく、ただ彼の愛を存分に受けながら穏やかに時は流れていく。それはもう、怖すぎるほどに。

四季が順繰り巡ってくるように、恋にだって終わりがある。一雨ごとに暑くなったり涼しくなったり、ゆっくり日暮れを早めたり遅めたり。それはいつだって突然のことなんかじゃない。気づかないだけで、見ていないだけで、静かに終わりはやってくる。例え見ないふりを貫こうとも。そして私は静かに壊れていった。

「どこも連れて行けなくてごめんな」

夏休みの終わりのことだった。夏休み中の彼にはボーダー隊員として存分に仕事を全うするという使命がある。二人で会う時間は少なかったけれど、こうして時間を見つけて会いに来てくれるだけでよかった。

嵐山はよく謝る男だった。彼にはなにも否がないというのに、自分のせいで私に我慢を強いているのではないかと不安になる度に彼は謝った。

「准のせいじゃないでしょ」
「そうだけど」

珍しく歯切れの悪い嵐山に疑問を抱く。会えないことはなにも苦痛じゃない。寂しくないと言えば嘘になるけれど、例えば彼が色恋に現を抜かして私を優先するような男だったら惚れてすらいなかったのだから、こうして会えるだけでも幸せだった。

「なんか言いたげだね」
「なまえはもっと俺に甘えていいんだぞ」

がしがしと頭を撫でられて、そのまま肩を引き寄せられる。嵐山の広い肩に頭を預ければ、彼の鼓動が耳元から伝わってきた。

あの瞬間、彼に身を委ねたとき。それはすごく幸せなことで、とても当たり前のことなんかじゃないと言い聞かせた。そしてそのとき漠然とした不安が私を襲った。彼が背負うには、私は重すぎるんじゃないだろうかとふと頭を過ったのだ。

怖すぎるほど幸せだった。誰かが私と嵐山は不釣り合いだと、そう言ってくれたなら私は嵐山を諦められただろう。だけど私達の前には嫌な女も悪の組織も動いてはくれなかった、そんな少女漫画のようなことは、なんにも。街行く人達だって、私と嵐山が仲良く手を繋いで歩いていてもなにも文句は言ってくれない。
私が嵐山に釣り合っているはずがないのに。そんなこと私が一番わかっていたのに、誰もが皆「幸せそうな二人」と微笑ましく見守ってくれていた。

「私が甘えないのも自分のせいだって思ってるでしょ」
「俺じゃ頼りないか?」

首を静かに横に振る。安心したように乗せた彼の頭の重みを、頭頂部に感じていた。

頼りがいがないなんて、そんなことあるはずがない。彼は自分がどれほど優れた人物であるかを、自分自身が理解していない。今の自分が成り立っているのは全て周りの人達に恵まれているからで、だからこそ自分も期待に応えるために尽力しているだけなのだと、そう思っている。周囲に恵まれることだって立派な才能であることも、きっと彼は気づいていない。そして彼の人格なくして周りは彼を認めることがなかったことも。

真っ直ぐな彼に惹かれたのに、彼の真っ直ぐさに直面する度に苦しくなった。私はどうしたって彼のようには生きられない、ただなんとなくで生きてきた私にそれはあまりにも難しかった。だからこそ彼のそばにいてもよいのか、どんどんわからなくなっていった。

飛んで火に入る夏の虫、という言葉を彼の腕の中で思い出していた。自ら火に飛び込んで身を焼かれて死ぬなんて愚直だと思う。だけど今なら思う。死ぬとわかっていても焦がれずにいられなくて、炎に包まれながら命果てるならそれが本望だったのかもしれないと。近づかずにはいられなかった、虫にとって灯りはそうまでして惹かれるものだったのだ。私は人間で、火は便利な反面おそろしいものであることを知っている。だけど優しさに触れる度に自分の愚かさを知るとしても、彼のそばにいたいと思ってしまった。ふわふわと飛び回るだけの私はなにも、わかってなどいなかった。彼のそばにいることがどれほど苦しいことかなんて、なにも。

彼が私に優しく触れる度、自分がとても大切なものにでもなったような気分になる。ただでさえ大きな手のひらだ、男女の力の差だとか、学業とは別に自分が防衛隊員をしているという考慮からだろう、私が怖がらないように、壊れないように、そうして触れる彼の手は、いつだって優しかった。だけど彼に優しくされればされるほど、怖くなって、壊れそうになっていく。だって自分が大切なものじゃないことくらい、私が一番わかっていた。大袈裟なほどの優しさは、私を甘やかすより先に、自分の愚かさを気づかせてしまったのだ。

この関係はいつまで続くのだろうと思った。今はよくてもいつか、私は彼にとって重荷になるのではないだろうか。きっとそんな日が来たとしても嵐山は笑って私を許すだろう。そして自分のせいだと眉を下げて謝るに違いない。彼の優しさに甘んじているようで、私はいつか自分の愚かさに心を痛めながら彼の優しさに身を焼かれて死ぬのだ。それが本望だというのは、あまりに自分勝手ではないのか。

彼の腰に腕を回した。いつか手放さなければいけなくなるであろう人の熱を、あのとき確かに感じていた。夏は終わる、だけど夏のような彼までも変わらないようにと私はあのとき、確かに願っていた。
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