夏の似合う人だと思った。彼の瞳は南国の、澄んだ海の色を模している。年中日の射す空のような、淀みを知らない純真な笑顔。そして夏のような彼がもたらすスコールは、いつもなんとも優しいもので、やわらかく私を包んでいった。短期にざあっと降る激しい雨、だけどそれは乱気流だとかそんなものではなくて、例え誰かが憂いたとしても乾いてしまった地を優しく濡らすためだけに降っていた。ありもしない少女じみた幻想を抱くほど、彼は優しい夏の人だった。

「いつも悪いな」

出られなかった講義のレジュメを貸すと、彼は申し訳なさそうに眉を下げる。ころころと表情の変わる人だと思った。

「なんで私?」

図書室には生徒が数人、レポートを間に合わせようと机に向かっていた。少し離れた席に一人座っていると、手を合わせて頼み込む嵐山がやって来るようになったのはあの夜からだ。レジュメに視線を落としていたけれど、私の言葉に彼は目を丸くしてこちらに顔を向けた。

「私じゃなくっても、嵐山の頼みならみんな聞くと思うけど」

冷房の効いた室内からは、じりじりとアスファルトを焼く太陽がおとぎ話のように感じた。炎天下、地はゆらりと熱気を揺らしている。今年ももうすぐ夏が来る。

「なんでだろうな」

ぽつりと呟いた嵐山の声に含まれている熱は、見ないふり。遠い太陽の姿を肉眼で確認したことがないように、窓から見える蜃気楼と同じく嵐山の気持ちなんかも全て私の頭が生み出した都合のよいおとぎ話だ。

「学校来れる日はみょうじと話すのが楽しみでさ」

恥ずかしげもなく、彼は声を落として言った。

彼の視線は真っ直ぐで、本心を隠すということを知らない。そして、他の人に向ける目と、私に向けられる目が違うものであることに気がつかないほど私も鈍くはなれなかった。だけどどうして彼が私に好意を抱くのかはわからない。彼には同じように夏の似合う人か、それとももっと優しい春の人、そういう人が似合うのではないかと思う。私には夏も春も似合いはしない。私はいつだって冬を待つだけの、葉が落ちてしまったあとの秋だ。

「腑に落ちてないって顔してるな」

ぎくりとして嵐山に視線を向ける。なんの汚れもないから、その瞳が怖いのだ。こんなにも混沌としている私をその目で見ないでほしかった。だけど彼の目に射抜かれたら最後、私はなににも抗えない。

「……嵐山って意外と変わってるんだね」
「そうか?みょうじはもっと自分に自信持てよ」

諭すように眉を下げて笑う彼を好きになってしまったのは、間違いなくこの瞬間だった。いや、本当はもっと前から憧れていたのかもしれない。彼と出会う前、テレビの中で笑顔を振り撒く彼をおとぎの国の人物だと決めつけたその日から。閉じ込めた自分の気持ちを自覚せざるを得ないほど、彼に愛されたいと思ってしまったのだ。

そう、私は彼に愛されたかった。想われているだけでよかったのに、私はそれを望んでしまった。そうして季節が巡る頃、私は彼を傷つけてしまっている。

一つ一つ思い出していく。彼のことを忘れるために思い出していく。いつかふとした拍子に思い出してしまわないよう、今、彼を忘れるために思い出していく。彼と私の間に確かに存在している愛に押し潰されてしまった私が、彼との思い出を引きずって生きていけるわけがない。それはあまりに困難だ。靴箱の奥に眠っていたサンダルはヒールが欠けている。それなのに捨てることを躊躇してしまったのは、あの日のことが鮮明に甦ってきたからに他ならない。

嵐山と付き合いだしたのは夏だ。夏の似合う男は、夏に愛を告白してきた。夏休み前、何度目かの飲み会のことだった。

「今日も防衛任務で一次会帰り?」

例のごとく私を送ってくれる彼と並んで歩くことに、少しだけ慣れてしまった自分がいた。慣れというのは怖いもので、こんなに顔の綺麗な男といることに私は慣れてしまったのだ。自分でもなんておそろしいことなのだと思った。

「そういうことにしといていいぞ」
「なにそれ。バカにしてる」
「なんでだよ、してないだろ」

くだらない、他愛もない話ができるほど。私から飛び出る軽口を、嵐山は笑って流してくれていた。
喧騒から外れる。夜の街を、静けさが走る。二人の間に流れる空気をむず痒く感じて、私は沈黙を破りたかったのに、嵐山の雰囲気に気圧されてなにも言えなかった。

「みょうじが思ってるより俺もお人好しじゃないからな」

聞きたくないような、聞きたかったような、そんな言葉が続く予感はしていた。そして私がそれをはね除けられないことも、どこかで諦めはついていたのだ。

「好きでもなかったらこうやって毎回送っていかない」

横顔に、嵐山の視線を感じる。ここで黙っていたって、嵐山が答えを聞くまで諦めてくれないのはわかっていた。彼は優しさで溢れていても、曲がったことや中途半端なものが嫌いなことくらいわかっていたのだから。そんな彼を、自分の気持ちに嘘を吐いてまで傷つけたくなかった。だから彼の手を握ったのは紛れもない本心だった。少し汗ばんだ、だけどちっとも不愉快じゃない彼の手のひらは大きくて、誰かを守るためにそうさせたのではないかと思ってしまうほど、それはそれは優しい手のひらだった。

彼は私を勘違いしていた。ベクトルが違えど真っ直ぐ自分の道を進むような強固な精神力など私は持ち合わせていない。彼に見えている私は、そんなしたたかさなんてなかった。私はいつだって冬を待つだけの、終わりを受け入れるだけの秋だ。あの瞬間彼を傷つけなかったとしても、いずれ彼を傷つけてしまうことを、有頂天の私は知らなかった。だけどあのとき確かに私は本気だった。幸せだった。いつもより高いヒールをはいて、彼に少しでも近づけた気がしていた。可憐なピンヒールを長時間履き続けていれば、脚が疲れてしまうことをすっかり忘れてしまうほどに。

欠けたヒールは二度と戻らない。ヒールまでコーティングされたエナメル樹脂は剥げて無着色の合皮が剥き出しになっている。お気に入りのサンダルをゴミ袋に入れたとき、堪らず涙が出そうになってしまった。
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