立て付けの悪い学生課の戸を閉めると思いの外大きな音が響いた。廊下にはやわらかい日差しが降り注いでいるのに、頬を刺す空気はひんやりと冷たい。
冬がすぐそこまで来ているから、私は今日、退学届を提出した。

終わることは始まることなのだと誰かが言っていたような気がする。それが本当だとしたら、私が始めるべきものはなんなのだろう。皆目見当もつかないけれど、終えなければいけない。そうすることが最善なのだと思った。

久しく来なかった学校に少しだけ気恥ずかしさを覚える。それももう金輪際ないのだろう。名残惜しく思いながら見渡すと、ベンチに腰掛ける彼に視線が向く。
人目を引く顔立ちだ。それに加えて無駄のない体型、長い脚を有した長身。天は二物を与えないというのは嘘だ。あれだけの容姿をしているというのに、天は彼に優しい心と正義感を持たせ、更には軽やかな身のこなしまで授けてしまった。結果彼は市民からの信頼を背負い、それに答えられる力量まで伴っている。誰が見ても完璧な男。
その彼の視線が、持っていた文庫本から私へと向いた。瞬間、人懐こい笑みを向けられる。その真っ直ぐな目が好きだと思った。その目に映る自分が好きだと思った。だけど今は、その目が怖い。

「久しぶりじゃないか。学校にも来ないし電話も出ないから心配したんだぞ」

立ち上がり、颯爽と駆けてくる。彼のスマートな立ち居振舞いに目の奥がじんわりと熱を持つ。

「あのさ、私」

学校、辞めるから。

私が始めるべきものがなんなのかはわからない。だけど終わらせなければいけないことはわかる。それは、彼との関係だ。


彼のことを知らない人は、この町ではいないのではないかと思う。近界民から市民を守ってくれる強さと、市民の期待に応える優しさ、顔立ちも引っ括めて彼は全てが格好いい。テレビの向こう側の人、私も嵐山准のことは知っていた。同い年のはずなのにすごい、なんて、遠い世界の人物なのだと思っていた。その彼とまさか同じ大学に通うことになるなんて、去年の私に想像できただろうか。

入学式、当たり前のように彼は人目を引いていた。そのことに本人が気づいている様子はなかったけれど、その視線に嫌な顔をすることもなく、まして驕るようなこともしない。この間まで制服に身を包んでいた18、9の青年だというのに、ここまでよくできた人間が本当にいるのかどうかこの目で見ても尚、私は疑ってしまったことを覚えている。彼と初めて出会った日も、こんな、よく晴れた日差しの中だった。

「なんで、また急に」

笑ったかと思えば、心配そうに諭されて、今度は困惑を浮かべる彼の表情。彼の目が真っ直ぐすぎるから、私は彼の目を見つめ返すことができない。

「よく考えたら私、勉強してやりたいことなんてなかったんだよね。学歴はあっても邪魔にはならないと思ってたけど、時間の無駄にはなるのかなって」
「やりたいことがあるのか?」
「それを今から探そうかなって」

努めて明るく振る舞う私は、彼の目にはどう映っているのだろう。痛々しいと思ってくれればいいけれど、底抜けに優しい彼だからきっとそんなことは思わない。だからこそ私は彼に惹かれたのだろうけれど。私は今、うまく笑えているだろうか。

「それでさ、私、この町出ようと思ってる」

振り向けずにいた。彼が息を飲んだのがわかったから。
代わりに頭の中を、彼との思い出が走馬灯のように駆け巡る。記憶の中の嵐山はいつも優しく微笑んでいた。その記憶とのギャップをこの目で見るのが怖い。それが例え自分が蒔いた種だとしてもだ。背中で彼の気配を感じながら、彼と初めて話した日のことを思い出していた。

同じ学校というだけでも卒倒するかと思ったのに更には学科まで同じとなると被る講義が自然と多くなる。更に言えばボーダー隊員として活躍する一方で学業もある、彼は全ての講義には出られなかった。いくら要領のよい彼とて、出席していない講義のことなどわかるはずもない。そして彼は自分が出席していなかった講義についても全て知りたがる男だった。

どこかで手を抜こうとか、この人は思わないのだろうか。
そんなことを思った。

一人暮らしする度胸もなく地元である三門市の大学を選んだ私には理解できなかった。就職するつもりもなかった。まだ大人になりたくなかった。ならば勉強をしてでも、若さという盾に隠れて存分に堕落していたい。そんな私に彼が理解できるわけもなかった。

そしてわかりあえない二人は、惹かれ合ってしまった。

私が嵐山を意識するまでにそう時間はかからなかった。どこまでも真っ直ぐで、誠実で、混じりけのない優しさで人当たりがよい。テレビに映る嵐山に裏表でもあってくれたほうが親近感も沸くというのに、彼にそんなものは一切なかった。自分とは違う世界の人。机二つ分の距離にいても彼はあまりにも遠すぎた。

呆れるくらい遠かった嵐山と初めて言葉を交わしたのは歓迎会のときだ。二次会へは行かず帰ろうとした私を送っていくと言い出したのだ。会話なんてそれはもう辿々しいものだった。

「……二次会行かないの」

訊ねると、彼は答えた。

「これから防衛任務なんだ」

困ったように眉を下げた彼は、頑なに酒を拒んでいた。未成年だから、なんて真面目に守っているのかと思いきや、彼が守っていたのは法律なんかじゃなくてもっと大きな三門市だったのだと思い知らされる。法を犯したくないという保身ではない、私が思っているよりもずっと、嵐山准という男は偉大だった。そして彼が私に家はどの辺だと訊ねたのは、ボーダー本部に向かう途中だったから私を送っていくと言い出したのだと気づく。当たり前に、彼に下心など一切なかった。

「みょうじはなんでまた帰るんだ?」
「私達まだお酒の味もわからないような子供なのに、あんな水みたいな飲み方してるの見るとなんか勿体なくて嫌なの」

彼と違って、なんて卑屈な考えだろう。紛れもない本心なのに自分で自分が情けない。それなのに彼は目を丸くして私を見下ろしていた。

「卑屈って思ってるでしょ」
「いや、すごいこと考えるなって」

その発想はなかったな、と夜を見上げる彼の目は、恐ろしいくらいに澄んでいる。この澄んだ目で彼は銃を構えるのだろう。彼に撃たれるものが最後に見るのがこの目なら、それはなんて幸福なことだろう。そして最期を彼に見届けてもらえるのなら、それはなんて幸福なことだろう。彼の真摯さを前にして、私はそんなことを思っていた。

彼は完璧だ。故に可哀想だ。それは、私なんかに愛されてしまったからだ。そして、私なんかを愛してしまったからだ。
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