最初の女 05

 例の手紙はもしかしたら、こうして自分と関係を持つ人間のうちの誰かということはありえないだろうか。

 ひとしきり行為を楽しんでシャワーを浴びながら、神鷹はぼんやりとそう思った。
 頭上から降ってくる熱い湯は神鷹の感覚を研ぎ澄ます。本命の彼女以外に自宅を知る女は他にいない。とはいえ機材車の後をつけられたりしたら自宅は簡単に突き止められるし、神鷹の自宅の最寄り駅くらいなら知っている女は何人かいる。今ごろベッドで微睡んでいるであろう女もそのひとりだ。関係も一番長く、頻繁に連絡を寄越してくる。体の相性も悪くないし羽振りもよい。嫉妬深さがたまに傷であるものの、基本的にその嫉妬は神鷹やその周辺に危害を与えない。
 だからといって信用に値するかと言われると首を捻る。
 気がつくと神鷹を取り巻く女の数は自分でも把握できないほどに増えている。その中には関係を切ったり切られたりした女もいれば、反対に神鷹が執心している女もいる。この女より若い女や好みの女、セックスさえ付き合えば金だけくれてあとはなにも言わない女、神鷹にとって都合のよい女は何人もいる。今会っている女と神鷹を繋いでいるのはいわば惰性、女が音を上げればこの関係は解消したって神鷹にとって痛くも痒くもない。金銭的にはきつくなるかもしれないが、その分を他の女から巻き上げられるくらいには最近この女と会う回数が減っているようにも思う。

(考えてみれば、会ってすぐに「疲れてる?」と聞いてきたのも引っ掛かる)

 思考をこらす。例えば嫉妬が暴走した結果のあの手紙なら、警戒した神鷹が昨晩自宅へ帰らなかったこともどこかで見張り、そして自宅へ戻った今日タイミングよく誘ってきたことにも納得がいく。なんのため? 独占欲? それとも俺がこの女に泣きつくことをどこかで期待している? あの女が欲しがるとしたら「神鷹にとって唯一無二の女」という安心感だろう。それにしたって悪趣味だ、もしもバレたら軽蔑されることは間違いない。下手したら煩わしく思った神鷹に関係を切られるのがオチだ。そうまでするメリットがこの女にあるのか、神鷹には皆目見当もつきやしない。

 しかしこれはあくまでも可能性の話、逆にもしもこの女が手紙の主だとしたら気心の知れた相手である分話は早い。下手に関係を切って逆上されてはたまったもんじゃない、もう少し待遇をよくして気を宥めるか、もしくはうまくフェードアウトするか。チェックアウトする前に尻尾を掴んで対策を練ろうと浴室を出る。

「お風呂で逆上せた?」

 とっくに眠っていると思っていた女の声に思わず神鷹の肩がびくりと揺れる。女はベッドにうつ伏せになりながら携帯をいじっていた。平静を装いながら神鷹は首を横に振る。

「珍しく長風呂だったじゃん。襲いに来てほしいのかと思った」

 勘弁してくれよと神鷹は思う。元気なときならまだしも今は心身ともに疲弊しきっている。底無しの性欲に付き合ってやるだけの体力などもう残っていない。

「朝まで一緒にいたい、ってそういうことでしょ?」

 女は起き上がり、甘えるように首を傾げる。この女に疑惑が浮上している今、そのあざとい仕草すら鬱陶しく感じた。無視するように濡れた髪をがしがしと拭く。どこから暴いてやろうかと全神経を張り巡らせた。これくらいバカな女なら、すぐに尻尾を出すだろうと計算立てる神鷹にお構い無く、女は語り出す。

「ねえ樹くん、私、樹くんのこと本当に好きなの」

 女の静かな声色に神鷹は訝しむ。間延びした、舌ったらずな話し方でゆっくりと、女は切実に訴えた。

「樹くん以外なんにもいらない。でも彼女にしてほしいとか、私だけを選んでほしいとか言わないよ。樹くんがたまにでもいいから会ってくれたらそれでいい。それだけが私の幸せなの」

 それはまるで自分に言い聞かせるようで、本心は別のところにあるような気がした。
 だからといって神鷹が、この女にしてやれることも言ってやれることも、なにひとつない。例え嘘だとしても「俺も好きだよ」なんて言えやしない。言ったところでそんな薄っぺらな言葉、かえってこの女の傷を深めるだけだと神鷹は思う。だから今までも、そしてこれからもこの女が一番ほしい言葉を神鷹が口にすることはない。それは女の方もわかっているようだった。

「私ね、“好き”の反対って“嫌い”じゃないと思うんだ。好きになってくれようともしない人に嫌われることもないと思うの」

 女の声は震えていて、静かな部屋によく響いた。今にも泣き出しそうなその体を、神鷹は抱き締めることもしない。

「私ね、“好き”の反対は“無関心”なんじゃないかなって、樹くんを好きになってから知ったんだ」

 思い返してみれば、神鷹がこの女の身の上を気にしたことなどあっただろうか。どうしてそんなに金を持っているのかも、どこに住んでいてどんな仕事をしているのかも、神鷹と会わない間なにをしているのかも、そして神鷹からこの女に連絡を取るときはいつだって金に困ったときだった。
 この女は、神鷹に自分を愛してほしいわけじゃなかった。せめて愛そうとしてほしくて、少しでもいいから気に留めておいてほしいだけだった。

 こんな関係に進展なんかあるわけがない。どこにも進まず、どこにも行けないままいつかあっさり別れが来る。その先は無だ。もうなんの関係もない赤の他人。どれだけ体を重ねても情がないのでは意味もない。だから神鷹は安心して消費してきた。
 しかしこの関係を担うもう片一方がもし情で押し潰されそうになっていたとしたら。
 どこにも進まず、どこにも行けず、逃げ場もないまま風船のように膨らんでいく“好き”という気持ちの破裂を怯えながら待っているとしたら。そしてその風船を限界まで膨らませて、耳を塞いで破裂に怯える彼女を隅に追いやっているのが自分だとしたら。彼女もまた、ハナっから用意されてもいない神鷹の“好き”という気持ちを詰めた風船を必死で探していたとしたら。

 こんな不毛な関係はないだろう。こんな不公平極まりない関係はないだろう。それでも彼女がその風船部屋から逃げようともしないというのならこの関係の終わりはいつになる。風船が破裂して木っ端微塵になったとき、この女は一体どうするつもりでいるのか。そして心中覚悟でその風船に空気を送り続けたいかと言われるとそんなのは真っ平ごめんだ。口を閉じない風船はいずれ萎む。選ぶならその道しかない。別れも告げずに静かに終われば、いつかは気持ちも冷めるだろう。

 手紙のことは結局聞けないまま夜が明ける。腕の中で眠っている女の寝顔が、出会った頃よりも随分やつれていることに神鷹はそのとき初めて気がついた。

 もう終わりにしよう。俺なんてやめて、楽になった方がいい。

 出会った頃、黒に近かった髪の色は今や金色に近いほど明るく染まっている。身なりも派手になって、肌の露出も増えた。考えてみたこともなかった。この女が自分に金を渡すために、堅気の仕事を辞めたのかもしれないということ。傷んだ髪を撫でると女の目尻から涙が溢れた。
- ナノ -