中宮紅印 21

 車を降りた神鷹の膝が笑っている。震える足でなんとか彼女の元まで向かう最中も彼女は神鷹から視線を逸らさない。その目に宿る憎悪に、神鷹は否が応でも全てを察してしまった。

 彼女が今目の前にいるのは偶然などではない。彼女は故意に、紅印の運転する車が神鷹の家の方面に来るのを見越して待って飛び出してきたのだ。

 なんのためにそんなことをするのか神鷹にはすぐに察しがついた。紅印は見ての通りの大男、なんらかの危害を与えるにしてもあまりに隙がなさすぎる。しかし紅印に自分を轢かせれば、恐らく紅印に相当のダメージを与えることができる。そうすれば神鷹から紅印を引き離すことができると考えたのだろう。
 浅はかにも思える捨て身な行為に、神鷹は震えが止まらなかった。

 それでも未だ路上に座り込む彼女に手を差し伸べる。その行為はあるいは贖罪だったかもしれない。しかし彼女は神鷹の手を振り払った。

「触んないでよ! 来ないでよ近寄んないでよなんなのよ」

 なんなのよ、はむしろこっちの台詞だが。振り払われた手を引っ込めながら神鷹は思う。

「(怪我してない? 大丈夫?)」
「は? 大丈夫ってなにが? 私のこと? 余計なお世話なんだけど」
「(ここだと危ないから場所変えよう)」

 通行の邪魔だから、と続けた神鷹に、彼女は更に逆上した。

「私が邪魔って言いたいの?」
「(言ってない)」
「言ったじゃん!」
「(他の人に迷惑かける)」
「……迷惑かけてんのはどっちよ、樹の方でしょ?」

 なにを言っても会話にならない彼女に神鷹はマスクの下で思わず小さな溜め息を吐く。今目の前にいる人物と、数ヶ月まで何年も交際していた人物がとても同一人物には思えなかった。

「この子もしかして酔っ払ってるの?」

 車を路肩に停めた紅印が神鷹に近づくと、彼女の怒りは更にヒートアップした。

「なんなのよ、その女! いや男!? あんたいつから男を好きになるようになったの? ほんと節操ないのね!」
「(紅印は違う)」
「なにが!? じゃあなんでその女が樹の家を知ってるの!? なんで隠れてこそこそ会ってるの!?」
「勘違いしないでちょうだい、あたしはこの子のバンドのスタッフよ」
「どうだか! だってその男、客ともスタッフとも寝てる最低男じゃない」

 依然路上に座り込み喚き散らす彼女に、周りは何事かと人だかりができている。それは彼女にとっては好都合だったのか、神鷹を指さしながら「みなさーん! この人、最低の浮気男でーす!」と叫びながらケタケタと意地悪く笑う。

「あんたが私に隠れてなにやってたかなんて全部知ってるんだからね! 私と別れてからのこともね! 証拠だってあるんだから」

 そう言って彼女は携帯を操作し何枚も写真を見せてくる。それは全て、神鷹を盗撮したものだった。

「もう言い逃れできると思わないでよね!」

 あんたはもう終わりよ!
 そう高らかに笑う彼女が、神鷹にはとても心から楽しそうには見えない。それどころか泣いているようにも見える。

 そういえば神鷹は、この女と付き合っている間一度だって彼女が泣いている姿を見たことがあっただろうか。一度だって腹を割って話したことがあっただろうか。彼女が本音で怒ったり泣いたりできるような、そんな環境を与えることができていただろうか。

 神鷹には今の彼女が狂っているようにしか見えないが、神鷹が知らないだけで今の彼女こそが本当の彼女の姿なのではないだろうか。

 彼女はいつだって神鷹の意思を尊重してくれていた。自分のことよりも神鷹のことばかりを優先して、それなのに自分はどうだ。あまつさえ将来の見えない生業に身を落とし、更には浮気なんぞを繰り返した。

 そこまで思い至ると、神鷹は思わず彼女の手を両手で握り締めていた。

「……なに、きもい離して」
「……」
「なんなの、やめて性病が移る」
「……」
「いい加減にしてよ! 汚い手で触んないでよやめてってば!」

 叫びながら彼女は泣いていた。何度も振りほどかれそうになる手を神鷹は強く握り締めていた。ごめん、ありがとう、とちゃんと伝わるように、そうせずにはいられなかった。

「樹のことなんてもう嫌い、大っ嫌い」

 神鷹は彼女の罵倒を静かに聞く。泣き叫んでいた彼女だったが、次第にそれは咽び泣きに変わりしゃくり上げながらこう溢した。

「……樹なんて大っ嫌い、私だけの樹じゃないならもう好きじゃない」

 ぼろぼろと大粒の涙を溢しながら彼女は言う。神鷹は彼女から目を逸らさずに黙って頷きながら聞いていた。
 本当は彼女がこうなる前に自分が聞いてやれていたらよかった。そうしたら公衆の面前でこんな恥もかかせずに済んだし、他の女たちに被害が及ぶこともなかった。
 神鷹には、これが彼女にできる贖罪だった。

「いつになったら私だけの樹に戻ってくれるの?」

 しかしその問いには神鷹は首を横に振った。そして握っていた彼女の手を解放して、言葉を紡ぐ。

「(今までずっと、ありがとう)」

 神鷹の言葉に彼女は声を上げて泣いた。ふたりがやり直せないところまで来ていることに、本当は彼女も気がついていたのだろう。箍が外れたように泣く彼女の声が晴天の夕暮れに響く。

 思えば別れたあの日、一方的に彼女から別れを突きつけられただけで神鷹の方からはなにも言うことができずにいた。それがずっと気がかりではあったが自分のせいで彼女にも危害が加えられたのだから、と自分自身に言い訳をしてずっと彼女に連絡することから逃げていた。

 神鷹は本当は怖かったのだと思う。本当に愛していた彼女に全てを話し、軽蔑され断罪されることが。
 しかし今日まで向き合うことを恐れた神鷹の罪は誰にも断じられることはなく、サイレンの音とパトランプの赤が迎えに来たのは目の前で泣きじゃくる一番の被害者だった。
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