中宮紅印 20

 それからの神鷹は、生きる屍のようだった。

 あの件以降、バーテンダーの仕事は辞めライブは数本こなしたが上の空、次第にバンドの練習や打ち合わせにも顔を出さなくなりついには誰から連絡が来ても返信することさえ億劫になり、家から一歩も出ない生活になっていった。

 社会との断絶を選んだのは、その方が世のため人のためになると思ったからだ。
 元々、神鷹は人間関係というものを面倒に感じる性格だった。その自分が、こうして決まったメンバーとバンドを組みファンと関係を持っていたことがまるで現実ではなかったのではないか。神鷹はそう感じるようになっていた。

 目を閉じると、ステージの上から見た景色をまぶたの裏に見る。明るくて眩しくて、人がたくさんいて、そしてその人々が全員自分たちの方を見ている。大きな音が鳴り響いていてまるでその光景は雷のよう、そしてその音の出所はまさかの、自分。

 冷静に考えれば考えるほどありえない気がしてくる。
 暗いところが好きで人混みが嫌いでうるさい場所が嫌いな自分が、あんな世界に本当にいたのか。長い夢でも見ていたのではないか。本当の自分はこうして、誰とも会わずひとり三十二平米の部屋で横たわるだけの人生だったんじゃないのか。

 現実に帰ろうと目を開ける。視界の中にはカーテンが締め切られた暗い部屋、テーブルの上はゴミが散らかっていて汚い。今が何月何日何曜日の何時なのか、朝なのか昼なのか夜なのかすらわからないし興味もない。

 現実はあまりにも味気がない。生きている実感を求め神鷹は目を閉じる。あんなに嫌いだったはずの雷のような夢はひどく居心地がよく、それでいて神鷹の胸を熱くさせた。
 しかし夢の中で自分の頭上に降り注ぐ光線はやがて、映画で見るような逃げる犯人を照らすそれに代わり、夢の中の神鷹はその光に見つからないよう必死で走る。見つかりたくない、だけど誰でもいいから見つけてほしい。そう願いながら逃げる神鷹の重く鈍った足が絡まって転んだ瞬間、夢の中で誰かが手を差し伸べたような気がした。



 次に神鷹が目を覚ましたとき、視界に映ったのは知らない天井だった。
 真っ白な天井に埋め込まれた直管蛍光灯が見下ろす視界の次に違和感を覚えたのは嗅覚、このにおいを神鷹は学生の頃に嗅いだ記憶がある。保健室のにおいをもっと濃くしたような、それでいて更に清潔な空気が循環している。
 その次は聴覚、人々の息遣い、リノリウムを踏むパタパタとした足音、台車を滑らせる音。そして知らない感触が全身を包み込んでいる。
 喉の渇きと空腹を覚え「ああ自分はずいぶん長いこと病室で眠っていたに違いない」ことを全身で察した。

「あら、やっと起きたのね」

 目を瞬かせる神鷹の耳によく聞き慣れた、だけど久しく聞いていなかった声が聞こえる。声の方に目を動かすと、ベッドの脇の椅子に腰かける紅印が神鷹を見下ろしていた。なぜ? 理由は神鷹が聞くまでもなく紅印が話してくれた。

「ずいぶん連絡が取れないから大家さんに頼んであなたの部屋に上がらせてもらったわ。全然起きないから救急車呼んじゃったじゃないの。でもまあ、無事でよかった」

 なにをもって無事とするのかは人によるが、まあ紅印が言うなら自分は“無事”のうちに入るのだろう。

 口を聞かない神鷹に代わり、紅印が医師を呼び診察にも付き添ってくれた。結局のところ神鷹は軽い栄養失調で倒れていただけに過ぎず、点滴を施されその日のうちに退院できることとなった。

「あなたと連絡が取れなくなってから大変だったんだからね」

 神鷹が引きこもっていた間のことを紅印は聞かせてくれた。霧咲や司馬も心配していること、公式の発表では神鷹は今のところ「体調不良によりしばらく休養する」ことになっており、決まっていたライブをキャンセルしたこと。
 しかしキャンセル続きではまずいと判断した紅印が、神鷹が戻ってくるまでのサポートメンバーを探しているとき霧咲が影州を推薦したのだとか。影州は楽器経験がないはずであるが、持ち前の飲み込みのよさですぐに修得したらしい。神鷹が復帰次第「俺様ベースで加入しちゃおっかな」とかなんとかほざいているらしいが、霧咲や司馬としてもまんざらではないのだとか。影州なら客にも人気があるし確かに悪くはないが、仮に影州が加入したらバンド名の由来を加味するとひとりだけ全然サイレンスじゃないのが少し笑えた。

「(迷惑かけて、ごめん)」
「ほんとよ。いい大人なんだからしっかりなさい」

 痩せ細った神鷹の腰を紅印が力強く叩く。筋肉が衰えてしまった神鷹は思わずよろけたが、紅印が腕を引き寄せたおかげでどうにか転ぶことは免れた。

 全ての手続きは紅印が済ませてくれた。病院でかかったお金も立て替えてくれるという。紅印が送ってくれる自宅までの道すがら、運転席で流行りの歌を口ずさんでいる紅印に神鷹は目を配る。

 紅印はどうして自分のためにここまでしてくれるのか。紅印にとって自分はなんなのか。サイレンスのスタッフである紅印にとって、神鷹はいわば金を稼ぐための商品に過ぎないはずだ。
 商品だからこそ大切にするのだと言われればそれまでである。しかし神鷹にはどうにも引っ掛かることがあった。

 紅印は神鷹の自宅を訪ねてきたという。そこで倒れている神鷹を発見し今に至る。
 しかし自分は、紅印に自宅を教えたことがあるだろうか。

 機材車の管理は基本的に影州や紅印に任せている。なので自然と自宅までの送迎は彼らにしてもらうことになるが、マンションの場所は知られていたとしても、神鷹は紅印に部屋までは教えていない。個人情報漏洩にうるさい昨今、住人たちとあまり親しいとは言えない大家が、とても堅気の人間には見えない紅印の言うことを真に受け部屋を教えるだろうか。

 そして紅印が、神鷹の部屋に上がったという事実。ともすれば紅印は、神鷹の精神を疲弊させるあの手紙を見たのではないのか。

 あの気味が悪くて仕方がないストーカーの手紙を、神鷹は一枚たりとも処分せずに全て取っておいてある。今後法的措置を取ることがあれば証拠になりえるからだ。それらは神鷹の記憶の限り、最後の手紙を受け取ってからテーブルの上に起きっぱなしにしていたはずだ。ならば紅印の目に入らないわけがないのに、紅印があの気味の悪い手紙についてなにも言ってこないのは不自然ではないか。神鷹があの手紙を受け取っていることを知らない限りは。

 最初にあの手紙を受け取ったとき、神鷹が真っ先に相談したのは紅印だった。以来送られてきた手紙の話を紅印にはしていないが、神鷹の話を聞いたとき紅印は神鷹の女関係を疑い、その後の件に関しても元恋人以外ことごとく紅印が一枚噛んでいる。この前の一件もそうだ。バーに出入りする女と、いとも簡単に女の素性を暴いた紅印。

 今まで何度も紅印を疑った。しかし何度考えても目的がわからずその度に疑惑の矛先を変えてきた。だからといって紅印に対する疑いが晴れたわけではない。とはいえ紅印だと言い切れる証拠もない。
 一か八か。信号が赤に変わりゆっくりブレーキを踏んだ紅印に、神鷹はあえて自分から切り出した。

「(手紙、見た?)」
「手紙?」
「(テーブルの上)」
「ああ、あれ」

 紅印の横顔は嫌なものを思い出した顔をしている。やはり見られたのだと察した神鷹に、紅印は続けた。

「どうして言ってくれなかったの? まだあの手紙が来てたなんて」
「(紅印、本当に知らない?)」
「……あんた、もしかしてあたしを疑ってるの?」

 紅印は鋭い視線で神鷹を見た。一瞬怯みそうになったが頷くと、紅印は声を荒げた。

「あたしなわけないでしょう!? なんであたしが」
「(でも紅印、なんで俺の部屋知ってる?)」
「なんでって」

 絶句する紅印こそが答えな気がしてならない。例えば彼女が家に来ていたとき、何者かに石を投げ込まれたのを思い出す。犯人は女性だと決めつけていたが仮に紅印が部屋を知っていたなら、元野球部の紅印にとっては造作もないことだろう。
 最初に女が線路に突き落とされたときだってそうだ。さっき神鷹の腰を叩いた紅印の力の強さは、恐らく部活を引退してからも衰えていない。
 スタッフの女の件だってそうだ。内部事情を知り尽くしている紅印になら、あの女の男関係を洗いざらい露呈させることができる。そして極めつけはこの前の一件。

 紅印にならできる、むしろ紅印にしかできないことと疑惑がテトリスのブロックのように繋がっていく。しかし消せないのは“どうしてそんなことをしたのか”動機だけがわからない。車が走り出してからも二人の口論は続いた。

「(なんでこんなことした?)」
「いい加減にしてちょうだい、あたしじゃないって言ってるでしょう」
「(でも紅印にしかできない)」
「なに言ってるの? あなた本当におかしくなったんじゃないでしょうね」

 おかしいのはどっちだ。神鷹はそう続けようとしたが叶わなかった。それは紅印が急ブレーキを踏んだからで、なぜブレーキを踏んだのか? それはちょうど女が飛び出してきたからで、間一髪轢きはしなかったがしばらく車内には二人の荒い息遣いだけが響いていた。やがて紅印は落ち着きを取り戻すと静かにシートベルトを外す。神鷹はというと、こちらに背を向けて路上に座り込んでいる女の後頭部を見た。見ようとした。しかし混乱していてどうにも焦点が定まらなかった。

「……ちょっと、あたし見てくるわ」

 紅印が声を震わせているのを神鷹は初めて見た。あまつさえ人を殺しそうになったのだから無理もない。憔悴しきった様子の紅印を神鷹は手で制す。

 今なにが起きたのか。咄嗟のことに頭がついていかない。路上に座り込み肩で息をする女がゆっくりこちらを振り返る。振り向いて、神鷹は思わず息を飲んだ。

 なんで?
 見開いた目がぽろっと溢れ落ちるのではないかと思うほど女を食い入るように見つめている。そして女も神鷹を見ていた。その目には愛憎が宿っていて、女のそんな顔を神鷹は初めて見た。

 なんでこんなところにいるんだ? そしてなんでこんなことになっているんだ?

 たくさんの疑問が頭に流れ込んでくる。他人の空似だと思い込もうとした、しかし神鷹が彼女のことを見間違えるわけがないし、なによりも彼女の瞳が神鷹から逸らされないことこそが答えだった。

 神鷹には、数ヶ月前に別れたはずの元恋人が全くの別人に見えて仕方がなかった。
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