謎の女 19

 バーに出勤する前に、神鷹はあの女と会った。……女と呼ぶには気が引けるのだが“彼”と呼ぶにはどうも相応しくない気がしてならない。

 女の連絡先は、紅印を通じて元バンドマンの彼から聞いた。待ち合わせのカフェに行くと、既に女は大きなサングラスを着けて窓際の席で待っていた。すぐさまやってきた店員に、女が頼んでいたアイスコーヒーを指し同じのを頼む。どうせ人前でマスクを外すことはないのだから飲むこともないのだが。不便さを感じつつも人目のつく場所を選んだのは、この女こそが今まで神鷹をつけ回していた犯人であるという確証があったからで、万が一女が激昂した場合も考えてのことだった。

「……彼から、どこまで聞いてますか」

 店員がアイスコーヒーを運んでくると、女が先に切り出した。声は震えており観念しているようだった。

「(男なのか?)」
「……今は、まだ」
「(まだ?)」
「いずれ取るつもりなんで」
「(そのために金がいる?)」
「……おかしいな、そのこと、彼にも言ってないのに」

 ゲイ風俗で働いているということは誰にも教えていないらしい。金が貯まり性転換手術をしたら足を洗うつもりだと彼は言う。

「(自衛隊辞めたの、俺のせい?)」
「……半分は。でもそれが全てじゃないです」

 彼は物心ついた頃から女性ではなく男性が好きだったそうだ。仕草振る舞いも女性的で、そんな彼をよく思わない両親から半ば強引に武軍装戦高校へと入学させられたらしい。

「毎日が地獄でした。男ばっかりの場所で男らしく振る舞わされて、誰のこともそういう目で見ちゃいけなくて」

 でもそんな武軍に神鷹はいた。中性的な容姿でありながら、男らしさを求められる連中の誰よりも信頼を得ていたのは神鷹だった。
 そんな神鷹は、彼にとって憧れの人だった。
 地獄みたいな日々の中、神鷹の存在こそが彼にとってはがんばるための理由であり、癒しだった。

「……神鷹さんは知りませんよね、私みたいな劣等生のことなんか……同じ部隊にいたことさえ知りませんでしたよね」

 あの手紙にはもう一枚、同封物があった。それは神鷹がまだ自衛官にいた頃に発行された、自衛隊の広報物だった。
 神鷹の二期下の新隊員を紹介したその中に、果たして彼はいた。そして神鷹はその冊子の一部をコピーしたものを見たとき初めて、バーに来る女と自衛官時代の彼が繋がった。神鷹は劣等生だった彼のことをちゃんと記憶していたのだ。

「……神鷹さんが辞めるって聞いて、私ショックで。だったらこんな地獄みたいなとこにいる理由ないって、外の世界で自由にしてやるって、そう思って」

 そして自衛官を辞めたあとも、彼には神鷹が忘れられなかった。神鷹がビジュアル系バンドでドラムをしているというのは風の噂で聞いたが、サイレンスというバンド名まではわからなかったらしい。伝手を作るべくあの男に近づいた。

「彼には感謝しています。私が本当は男でゲイだってカミングアウトしても好きでいてくれて、いつもよくしてくれました」

 でも遂に彼は憧れの神鷹を見つけてしまった。しかし神鷹はとっくに、彼が焦がれていた神鷹とは全くの別人になってしまっていた。

「ショックでした。神鷹さんがこんなことするはずないって、音楽を好きな全ての人を侮辱するみたいに、女を食い物にして、平気な顔してるわけないって」

 自分が、自分こそが神鷹の目を覚まさせなければいけない。そう思った男が考えだした答えは“自分が女になって神鷹の誰よりも近くにいること”だった。そのためにはまず金がいる。金がいるからゲイ風俗で働くしかない。そしてゲイ風俗で働く自分は、あの元バンドマンの彼には相応しくない。だから別れたと彼は言う。

 まっすぐすぎる動機に、神鷹は目眩がした。
 だったら、そんなきれいな動機だったら、どうして。そう思わずにいられなかった。

「(……それで、他の女に危害を加えた?)」
「なんですか、それ」
「(とぼけるな、俺の家にも、手紙)」
「手紙?」

 目の前の彼は、サングラス越しでもわかるくらい困惑している。
 そこで神鷹は、やっと我に返った。

 もしもこの男が犯人だとして。
 ならばなぜ、神鷹の家に自分の正体を明かすような手紙を送った? 自分の素性を隠し通せないとわかったからにしては、今この場で会っている彼の様子は消沈しすぎてはいないだろうか。
 本当はバレたくなかったのだとしたら、わざわざ風俗の宣材写真など送ってくるだろうか。神鷹が男ではなく女が好きだと知っていて、自分がまだ男であるというなによりもの証拠を、わざわざ想い人に突きつけるのか?
 神鷹が考えだした答えはノー。つまり、犯人はまだ別にいる。

 サングラスの奥でさめざめと泣く見た目だけ女の生き物をじっと見つめる。彼は女として生きたくて、今こうしている間にも自分の性に抗っている。何年も想いを募らせた男に、男だとバレているのに指先を揃えて涙を拭う。人目があるからか? それだけの理由なのか? この涙の理由は、神鷹に自分の正体や悪事がバレたことに対する涙なのか?

「(どうして泣いてる?)」

 神鷹は訊ねた。彼のことがわからなかったから、わかりたいと思ったからだ。

「……失恋したからですよ、高校生の頃から好きだった人に」
「(どうしてそう思う?)」
「風俗で働いてるなんて憧れの人にバレたら、もう顔向けできませんよ」

 彼は言う。男だということも、ゲイだということも、世間にバレたところで自分にとっては取るに足らないことだと。それよりも、不特定多数に抱かれ金を貰う自分こそがなによりも汚い気がしてならないのだと。

「ミイラ取りがミイラになるって、このことだったんですね」

 静かに涙を溢す女の表情は、サングラスに隠れているため神鷹には見えなかった。



 彼と別れたあとでのバーの仕事は上の空、アルバイトから帰る道すがら、神鷹は思った。
 自分のために身を汚した彼は、彼の思う“きれいな自分”にはもう二度と戻れない。同時に彼の中の自分もそうだ。彼の記憶の中にいるであろう、高校時代や自衛官時代の孤高で尊大だった神鷹は今や女を貪り尽くすだけの嫌な存在に成り下がっているに違いない。

 そうまでして自分が守りたいものってなんだったんだ? バンドマンという地位は、本当にそんなに大切なものなのか? 自分を想う誰かを傷つけてまで得るべきものだったのか?

 自宅へ帰ると、またいつもの手紙が投函されていた。

“男にまで好かれて災難だね”

 女性的な美しい筆跡のその文字は、神鷹の神経を見事に逆撫でしてくれた。読んだその場でくしゃくしゃに丸めて地面へと叩きつける。“災難だった”? 笑わせるな。悔しさではらわたがぐつぐつと煮えくり返りそうだ。
 ……いや、本当は違う。悔しいのは、この手紙なんかじゃない。どこの馬の骨とも知れない見ず知らずの最低なストーカー人間に、彼の一途さを“災難”と片付けられてしまう自分の不誠実さと不甲斐なさこそが神鷹にとってはなによりも“災難”である気がしてならなかった。
 つまり。
 周りや自分を不幸にしているのは、このストーカーなんかじゃない。周りの人間を無意識に巻き込み不幸にしている自分こそが、自分を不幸にしている諸悪の根源であると認めざるを得なかった。
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