謎の女 17

 あの一件から半年が過ぎた頃、神鷹とあの女の関係は未だ暴かれることがないままようやくあの女の話題は下火となったが、あの女との関係が暴かれ連日の炎上騒ぎによって勢いをなくしたバンドは多々あった。日々インターネット上で誹謗中傷され、ライブをしても日々加速していく批難の数とは裏腹に客は減り、解散や引退を余儀なくされたバンドも数知れない。

 ライバルが減り好都合かに思われたサイレンスもまた、動員確保に喘いでいた。

 どれだけイベントを打っても客が入らないのだ。対バンイベントの総動員が減り、それに伴いサイレンスの動員数も徐々に落ちていった。バンドの数が減ると自然とイベント自体が減っていく。そして貴重なイベントですら客が入らない。いわばジャンルの衰退化、あの一件に関わっていないバンドマンですらモチベーションを保てず辞めていく者が出てきた。

 そしてサイレンスにも、引退の影は徐々にちらついていた。

 最初に脱落したのはスタッフである影州だった。影州には機材車の運転や物販だけでなくグッズやジャケットのデザインや在庫管理を任せていたが、ある日のライブのあと機材車の中で霧咲と口論となった。霧咲としては、影州が客の女にチャラチャラとした態度で接するのが気に入らなかったらしい。あの女の件があり男女の関係に過敏になっていたのもあるだろう、影州としてはサイレンスのスタッフであるという立場は弁えており、例え好みの客から連絡先を聞かれても絶対に教えずに真面目に数年もの間サイレンスを影で支えてきた。だと言うのにその言われよう、さすがの影州もぶちギレた。

「大体お前らの方こそ客掴んどく気あんのかよ!? 毎回毎回来てくれる客に、ただの一回でもありがとうの一言直接言ったことあるか!? ねえよな!?」

 実際、サイレンスのライブに来る客の中には物販スペースでの影州との会話を楽しみにしている者もいた。口下手なメンバーの代わりに矢面に立ち、客からの意見や指摘も今まで全て影州が窓口となり受け止めそれをメンバーへと落とし込む。そうして客からの意見を上手く反映させながらサイレンスというチームは円滑に回ってきたのだ。いつも楽しそうに客の様子を報告する影州とて、今までに聞き苦しい意見もたくさん聞いてきただろう。それも全てサイレンスのためと思い、我慢してきたこともあったはずだ。
 そんなことは、霧咲とて頭ではわかっていたはずだった。

「色恋営業? 方針転換?」
「……お前それ本気で言ってんのか?」

 影州の今までの行いを“色恋営業”と片付けた霧咲の言い分も、悲しいかな神鷹にはわかってしまった。
 霧咲は人間関係において決して器用な男ではない。男子校出身者にありがちだが、女性に対しての振る舞いに関してはメンバーの中で一番不器用だった。
 そんな霧咲がフロントを務めるサイレンスだからこそ“ストイック”で“硬派”といったクリーンなイメージ戦略に勝つことができた。霧咲だって本当は、自身のイメージなんか気にしなくていいなら本当は、いつも来てくれる客に対しての感謝を伝えたくないわけがない。しかしそんなことをして「今さら客に媚びるなんて」と言われ軽蔑されるのはもっと怖いのだ、なぜならそんな行いは“サイレンスのジャック”として求められるイメージ像とはあまりにかけ離れているのだから。

 影州とて霧咲が客のイメージを壊さないよう努めていたのは知っていたはずだった。それでも売り言葉に買い言葉のラリーは続き、どちらも引かなかった。引くに引けなくなったのだろう。重苦しい空気が車内を満たしていた、過去最低動員数を記録した日の帰り道のことだった。

 辞めると言い出した影州を誰も引き留められなかったのは影州の言い分を理解できなかったからではなく、スタッフ一人分の人件費すら惜しいくらい資金繰りに喘いでいた、ただそれだけの単純な理由だった。

 金がないというのはそれだけで人の心を荒ませる。サイレンスとしての経費が足りないのだから、久しく女から金を受け取っていない神鷹の生活費も当然苦しい。金に困った神鷹を見かねた紅印からバーでのアルバイトを紹介され、現在週に三日ほどシフトに入っている。久しぶりの労働は神鷹の体を疲弊させたが反対に精神に潤いを与えた。社会に関わり自分の手で稼いでいるという意識が、失われつつあった人間としての尊厳を持ち直させたのだろう。
 更に言えば、神鷹個人を慕ってバーに来てくれる客もできた。

「よかった、今日神鷹さんいてくれて」

 神鷹が働き始めて間もなくバーに顔を出すようになった女は神鷹より二つ年下、基本的には神鷹をにこにこ眺めながら酒を飲むために来ている。いわく「顔のいい男はいいつまみになる」そうだ。こちらから話を振らなくても喋りたいことがあれば一方的に女の方から話してくるので、神鷹にとっては楽な客だった。今日の話題は元バンドマンで今はフリーターの元カレについてだった。

「より戻したいってうるさいの、私は全然引きずってないのに」

 一年前に別れたその元カレとやらは、どうやら泣かず飛ばずで半年ほど前にバンドを解散したという。話を聞く限りサイレンスと規模は同等かそれ以下、対バンなど被っていたかもしれない。下手するとあの女の騒動に巻き込まれた人間だろうか。自身もステージに立つバンドマンであることはこの女には隠している。悟られないよう努めながら黙って女の話を伺い、頭の中で話の筋を立て人物の特定を急ぐ。しかしそんな神鷹の考察など一瞬にして無駄となった。

 扉についている鈴が来客を知らせる。入店してきた人物へと顔を向けると、そこにいたのは紅印だった。

「あら、がんばってるのね」

 元々この店のオーナーは紅印の知り合いなのだという。系列の店では影州も働いており、元気にバーテンダーをやっているそうだ。霧咲と影州はすぐに和解したものの、サイレンスの経費がカツカツなことを知っていた影州がスタッフとして戻ってくることはなかった。

「たまたま近く寄ったからついでに。今日オーナーは?」

 女に軽い会釈をすると紅印は女の隣に腰かけた。オーナーが休みであると伝えると心底残念そうにしていたが今日はこの店で飲んでいくらしい。紅印がキープしているウイスキーのボトルでハイボールを作ってやると「あら、あなた腕上げたんじゃない?」などとのたまってくる。ハイボールくらいでそれを言われてはバーテンダーの名が廃るというものだ。なめないでほしい。ジト、とした目で睨みつけると紅印は楽しげに笑った。

「冗談よ。でもバーテンダーって本当に奥が深いのよ、励みなさい」

 ウフフとやけに上機嫌で酒を呷る紅印と神鷹を、女は何度も不安そうに見た。関係性を疑っているのだろうか。女が神鷹に気があることを察した紅印はすぐに「やだ、勘違いしないで」と否定した。

「あたしはこの子とそんな関係じゃないわ、ただの仕事ナカマ」
「あー……」
「仕事仲間っていっても飲み屋の仕事じゃなくて、そうねえ」

 紅印がバンドの話をするのでは。そう思った神鷹は視線で紅印に釘を刺す。このバーにいる間は、誰にも無用な詮索をされたくなかった。

「あら、言ってないの? バンドのこと」
「バンド?」
「そう、バンド。この子ドラムやってるのよ。それで、あたしはヘアメイクと今は物販の担当」
「へえ〜……神鷹さん、バンドやってたんですねえ」

 感心したようにしげしげと神鷹を見つめながら、女は神鷹の作ったモスコミュールの入ったグラスを両手で受け取る。どういうジャンルでどの程度の規模なのか、元バンドマンの女ならそういうことを根掘り葉掘り聞いてくるんじゃないか。しかし神鷹のそんな心配は杞憂に終わる。

「どっからどう見てもそんな感じじゃない、夜の仕事一本には見えないわ」
「確かにそうですよね、お店週三くらいしかいないし」
「でしょう? ところであなた、神鷹のシフト把握してるなんて随分この店来てるのね」

 にっこりと唇に弧を描くと、紅印は優雅にハイボールを呷る。女は小さく「あ」と漏らすとそれきり黙った。

「そんなに好きなんて随分健気ね。どっかで見たことあると思ったけどそういえばあなた、ライブハウスにもよくいたでしょう?」

 紅印は笑みこそ浮かべてはいるものの声色には棘があった。なにかを確信していて、そして追い詰めるときの言葉尻だと神鷹は思った。神鷹も女関係に関して、こうして紅印から問い詰められることが何度もあったのだから。

「……それは、元カレもバンドマンで」
「ああ、あの子でしょう? 元気? あのバンドのドラムの子」

 そう言って紅印が続けたバンド名には神鷹も覚えがあった。なぜならよく対バンした相手で、彼らの解散ライブにはサイレンスも出演したくらい交流のあったバンドなのだから。
 動揺が止まらなかった。神鷹は思わずそっと女を見やるが、女は頑なに顔を上げようとはしない。カウンターに置いたグラスを持つ両手はガタガタと震え、ゆるやかに上がる炭酸の泡は神鷹の鼓動の音にリンクしているようだった。

「あたしもよくあの子から相談されてたわ〜。あなたから告白してあなたから振ったんですって? どうしてそんなことしたの? それに、別れてからもあの子からチケットもらってライブ来てたんですって? すごいわよね、あたしならそんな真似できない」
「……。」
「ま、目的があれば形振り構ってられないのかしら。あなた、あの子たちが解散してからもライブ来てるわよね、うちの動員で」

 紅印はもう、笑みを作ってはいなかった。静かに、それでいて確実に女を追い詰めている。その様子を神鷹はただ固唾を飲んで傍観することしかできずにいた。

「ひとつ忠告しておくわ。あなたのやり方じゃ、あなたのほしい幸せなんて手に入らないわよ。あなたがあの子を利用したようにね、あなたも搾取される日が来るのよ」

 その一言を言い終えると、紅印は女ではなく神鷹を真っ直ぐと見据えた。

 女は俯いたまま金を乱暴にカウンターに叩きつけると、なにも言わずに立ち去っていく。その際に、慌てて出ていく女の勢いで頭からツヤのある黒髪ロングの髪がずれたことで女がカツラだったことを神鷹は初めて知った。
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