スタッフの女 16

 そして神鷹が心配したあの女との“また”は、二度と来ることはなかった。

 サイレンスが出演する次のライブも、あの女の企画したイベントだった。あの女と最後に会って二週間が経つがその間、女からの連絡はただの一度たりともなかった。そして今日に至り神鷹は重い気持ちで会場入りしたがあの女はおらず、心配は杞憂に終わった。

 さすがにあの女も、自分とのことが気まずいのだろうか。そう思いながら楽屋に入ると、いつもより重い空気がどんよりと立ち込めていた。そしてその空気の正体は、紅印が早々に教えてくれた。

「……ここのイベンターの女の子、辞めたんですって。バンドマン手当たり次第に食ってたみたいよ」

 神鷹にメイクを施しながら、紅印は声を潜めながら経緯を話してくれた。

 紅印が聞いた話によれば、今朝スタッフたちが出勤したところ、女がバンドマンたちと密会している盗撮写真がライブハウスのシャッターに所狭しと貼られていたそうだ。
 しかしなにも知らない女は普通に出勤してきたらしい。扉一面に貼られた写真を見るなり顔を真っ赤にして、全ての写真を剥がし終えると今日付けの退職を申し出てそのまま帰っていったという。
 しかもその写真はインターネットでも拡散されており早速大炎上、女との密会を盗撮された相手の中には、今日出演するバンドマンもちらほらいるらしい。

 楽屋はあの女の話題で持ちきりだった。最悪の糞女、アバズレ、ヤリマン、聞き苦しい単語ばかりが静かな波のようにさざめいている。

 俺だけじゃなかったのか。

 紅印の話を聞きながら青ざめていく神鷹を見て、紅印は小さく耳打ちをした。

「……あんたもあの女と寝たんでしょ? この前のライブのあと」

 軽蔑するような目で鏡越しに目を合わせてくる紅印に神鷹は答えなかった。答えられなかった。心臓が早鐘を打ち、ありえないくらいの恐怖が全身を支配していたのだから。

 その写真の中に、俺はいるのか。

 インターネットに疎い神鷹は、SNSや掲示板など当然見ないし興味もない。影でなにを言われていようがそんなものは便所の落書き同然とすら思っていた。
 しかし便所の落書きにも、確かに質の悪いものはある。
 例えば実在する誰かの名前、電話番号、その人物を中傷する言葉、そして、誰にも知られたくない秘め事であり事実だ。

 バンドマンに夢を見る女をメインターゲットにしている以上、神鷹の女関係の一部でも表に出れば今勢いに乗っているサイレンスでさえ確実に終わる。そのリスクは神鷹自らが確実に女を飼い慣らすことで回避できていたが、あの女は神鷹が飼い慣らしたわけではない。あんな行為は強引で、そしてあの女は神鷹に興味があったというよりも“バンドマンを侍らせている自分”が好きなだけの女だ。もしも今回神鷹の写真が拡散されていないにせよ、事実を拡散され地位がなくなった女がなにをするかなどわからない。

「安心しなさい。あなたの写真はなかったわよ」

 放心状態のままメイクを終えた神鷹の背中を両手で叩くと紅印は去っていく。“サイレンスの樹”が鏡越しに自分を睨んでいるように感じた神鷹は、すぐに男子トイレへと駆け込んだ。

 あなたの写真はなかったわよ。
 安心するはずの紅印の言葉が、神鷹には何よりも怖くて堪らなかった。
 あれは、バレるかバレないかは、だって運でしかなかった。

 自分の悪事が出回って、出番が来て、フロアから冷ややかな目を向けられ、楽屋に戻っても“あの女に騙されたバカなバンドマン”という目で見られるなんて、神鷹には耐えられなかった。
 そして神鷹があの女にされたことは、今まで自分に近づいてきた女にしてきたことと同じことだった。彼女たちも、こんな恐怖と戦いながら俺と会い金を渡し体を重ねてきたというのか。この男には自分だけじゃないのだと知りながら“騙されてる女”という耐え難い事実が世間にバレるかもしれない恐怖と戦っていたというのか。

 そしてもしも自分が、あの女のように“騙す側”として晒し上げられる日が来たら。

 恥ずかしさで顔から火が出そうになりながら、噂の火消しに奔走する自分を世間はどう見る? 哀れな男だと笑うか、悪い男だと軽蔑するか、いずれにしてもただでさえ地に落ちている社会的地位はないに等しくなる。二度と立ち上がることさえ許されないだろう。

 途端に怖くて堪らなくなった。危険な橋を渡っているという自覚はあったが、その橋から落ちたあとのことなど今の今まで考えたことなどなかった。落ちなければいい、バレなければいい、落ちないようにバレないように気をつければいい。そう思っていた。
 しかし神鷹の意思とは別に橋が壊れることもある。壊されることもある。そしてそれは運でしかない。自分はあの女の被害者ではあるが、一方で他の数多の女にとっては加害者でもある。晒し上げられたのは自分の方だったかもしれないのだ。

 自らの喉に指を突っ込み嘔吐を促す。胸のうちに溜まる気持ちの悪さをこれ以上自分の中に留めておきたくなかった。胃袋が空になり頭が真っ白になった神鷹の顔は、化粧でも隠れないほど不健康に青白かった。

 もう限界なのかもしれない。
 憔悴して光を失った自分の両目を見つめる。ファンデーションで消したはずの古傷が、コンシーラーの下から自分をじっと睨みつけているように思えた。

“安心した?”

 自宅へ帰った神鷹には、たった一言のそんな手紙に怯える気力さえ残っていなかった。
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