スタッフの女 14

 気持ちが落ち着いた頃、メンバーたちのいるところに戻った神鷹はこっぴどい叱責を受けた。ぐうの音も出ない神鷹が言いたい放題言われているのを見かねて、助け船を出したのは彼女だった。

「樹さんにも調子の悪いときくらいありますよ! 樹さんも反省してることですし、今日のところはこれくらいにしてあとは私に任せてください」

 それからのことを神鷹は正直あまりよく覚えていない。
 気づけば女の家に連れ込まれ手料理まで振る舞われ風呂まで借りてしまった。ろくな食事を摂っていなかった神鷹は、温かい料理を久しく食べていなかったことを思い出しながら女が洗面所で髪を乾かしているドライヤーの音を女のベッドの上で聞く。

 そういえば、どうしてこの女は俺にここまでしてくれるんだ?

 ふと浮かんだ疑問に神鷹は思考をこらす。ただのブッキングスタッフとバンドマンという間柄、ここまで親身にされる筋合いはハッキリ言ってない。
 今までも特別に親しくしていたわけではないし、お互い仕事仲間として接していたはずだ。それなのに。

 半乾きの髪から頬へ滴が落ちる。肌を滑る生ぬるさが不愉快で、生活感のあるこじんまりとした生々しい部屋さえもおぞましく歪んで見えた。
 しかし先ほど、勘違いとはいえ泣きながら自分を止めてくれた彼女を思い出すと良心が痛んだ。人からの好意をありがたく受け取れなくなっている自分が嫌になるほどに。

 いくら今の自分を取り巻く事件で人間、特に女を信じられなくなってしまったとしても長年世話になっているスタッフまで疑うのは人としてさすがにどうなんだ。一瞬浮かんだ疑惑に頭を振る。あんな真面目で健気な女の子まで疑い始めたら、もういよいよ誰も信じられなくなる。さすがにそこまで世は俺を捨てちゃいないだろう。神鷹がそう思い直したのと時を同じくして洗面所から聞こえていたドライヤーの音が止まる。疑うな、今まで通りに接しろ。自分にそう言い聞かせていると、風呂から上がった女が部屋まで戻ってきた。

「なんか飲みません? 樹さんってお酒飲める?」

 頷くために彼女の方を振り向く。化粧をしていない肌はツヤがあり、胸元のゆるいTシャツから覗く湯上がりの鎖骨はまだほんのり赤い。ほっそりとした太ももは剥き出しで、さすがに目のやり場に困った。

 疑ってもよくないが、いやらしい目で見るのもよくないだろう。隣に腰を下ろした彼女から缶酎ハイを受け取ったものの「やはり酒は飲まない方がいいかもしれない」と躊躇っている神鷹の髪に女が無遠慮に触れる。思わずびくりと反応すると、女は慈しむような静かな声色で言う。

「まだ髪濡れてる」

 そう言って、神鷹の首に掛かったタオルを掴むと「乾かしてあげる」とあぐらをかいた神鷹に馬乗りになる。膝立ちした女の鎖骨がちょうど目の前に来るので視線を下げるが、それはそれで白い太ももが視界に入るので目に毒だ。目を泳がせている神鷹に気がついたのか女はクスクスと笑う。

「樹さんかわいい」

 彼女が発する声色はまるで嘲笑にも聞こえた。本当にこの女が言ったのか? 初めて聞く声色に思わず腰が引けそうになる。そんな神鷹を咎めるように、女は手を止め更に距離を詰めた。

「ファンの子食い散らかしてるって噂だけど、あれって本当?」

 女に顎を掴まれた神鷹は強制的に視線を合わされる。女の目は爛々としていて、まるでおもしろいものを見つけたかのように輝いていた。
 ぞっとした。そこまで噂が広まっていることにも、豹変した女の態度にも。
 答えない神鷹の唇を女の指先がなぞる。愉しげに歪んだ女の赤い唇から神鷹は目を離せなかった。

「ずっと前から気になってたんだよねえ。こーんな綺麗な顔して裏では結構遊んでるなんて」

 昔はこんな悪い子じゃなかったのにねえ?

 唇が触れそうな距離で女が言う。それから逃れたくて後ずさる神鷹の背中を悪寒が走る。視線を逸らせば女が笑い、その度に女の指先が神鷹の頬を撫でる。

「知ってる? 樹さんが女の子食い荒らしてくれたおかげで他のバンドのお客さんがみーんなサイレンスに流れたこと……それで夢を諦めたバンドマンがたーくさんいたこと」

 女が続けた言葉に、神鷹はハッと息を飲む。

 音楽で食っていくと決めたバンドマンのほとんどが、自分たちの音楽で世間をひっくり返したいと息を巻いている。自分たちの音楽を認めてもらいたい、新しい音がここに存在していることを知ってほしい、その気持ちだけでステージに立ち、全ての気力を振り絞って演奏をする。その熱の沸く原点は“音楽が好き”という気持ちに他ならない。

 でももしも“音楽が好き”であるはずの演者の中に、音楽とは別のところで客の心を繋ぎ止めようとするやつがいたとしたら。挙げ句の果て、客のほとんどがそいつに夢中になってしまったら。

 バカバカしいだろう、やる気なんて失せるだろう、もう音楽なんて下らないからやめちまおうって、そう思ってしまうやつがいてもおかしくないだろう。

 女を食い物にして犠牲にしているのは自分の世間体だけだと思っていた。悪者になるのは自分だけだし、その代償を払うのもどうせ自分だけだと。自分と、そんな自分に騙されているバカな女たち以外に傷つく人間がいるかもしれない可能性を、神鷹は今の今まで考えようともしなかった。

 自分がしていることは、音楽を愛しステージに立つ全ての演者に対する冒涜であり、正しい方法で受け入れられるはずだった音楽の流通を止める行為だ。もしも客が神鷹に目も暮れず真っ当な理由で好きになったバンドだけを応援していたら、正々堂々音楽で勝負するバンドの未来が断たれなければ、この世に生まれたかもしれない音楽や演奏者の未来を自分が止めた。
 その事実を前にして身の毛がよだった神鷹のこめかみから嫌な汗が流れていくのを見て女は愉快そうに舌でそれを舐めとる。しかし神鷹はそんなことにも反応できないほどに消沈している。目の前の女の現在の態度なんかより、長らくの間自分がなんの躊躇いもなくしてきた所業にぞっとして堪らなかった。

「私イベンターだし、そういうの黙って見過ごすのよくないと思うんだよねえ。サイレンスと対バンするとお客さん食われちゃうかも! ってよく対バンしてるバンドに教えてあげた方がいいのかなって」

 それだけはやめてくれ。
 訴えるように女を見る。神鷹の目は揺れていて、女は怯える神鷹を見て楽しそうに声を上げて笑った。

「私が怖い?」

 女の問いに神鷹は思わず小さく頷いた。恐怖からの反射だったが、女の機嫌を損ねてはまずいと気がついたのは「ふーん」という冷めた声を聞いたあとだった。

「なんで? 私と樹さんの仲なのに? さっきまであんなに優しかったのに?」

 それはこっちの台詞だと神鷹は思う。しかし伝えることなど到底叶わない。声帯的にも、状況的にも。

「でもわかるよ、私がいないとイベントに出させてもらえなくなっちゃうもんね、困るよね、バラされたくないよねえ?」

 なにが言いたいんだこの女。
 目的がわからないままじっと女を見る。もはや神鷹に抵抗する余裕がないことを確かめて女は神鷹を押し倒した。

「サイレンスがイベントに出れるのは誰のおかげ?」

 神鷹が口を聞けないことを知っていながら女は尋ねる。声を発することができずに、女をただ見上げることしかできない。その間に衣服が脱がされていくのに、神鷹は抵抗することなどできなかった。

「私の言うことは絶対?」

 女は神鷹の首筋を吸いながら、均整の取れた白い体に指先を這わせる。敏感な箇所を攻められると神鷹は反射的に吐息を漏らした。

 こんな状況で感じるなんて屈辱だった。とはいえ女との行為自体が久しぶりで、体は嫌が応にも反応してしまう。
 そんな自分が情けなくて堪らずに、漏れそうになる声を我慢しようとする神鷹の目に涙が溜まる。女はそんな神鷹を見て楽しそうに「かわいい」と目尻に唇を落とした。

「世界で一番かわいいのは誰?」

 至近距離で大きな目に見つめられ、神鷹は答えるように女の髪に触れる。絶対的な恐怖に縛られ、そうすることが正解であると判断した。

「私のこと愛してる?」

 それには一瞬躊躇ったが、神鷹は女の頭を自分の方へと引き寄せた。
 女は神鷹の反応に満足したのか、噛み付くように口づける。口内を女の舌で弄ばれている間、閉じた瞳から涙が溢れるのを自覚した。

「かわいい」

 神鷹の頬を両手で包み、女は口角を上げて言う。
 神鷹に跨がっている間、女は何度も「かわいい」と言った。そう言われる度に神鷹の自己嫌悪は加速していき、コンドームの中に欲を吐き出す頃には既になにもかもがどうでもよく、なにもかもが嫌になっていた。
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