本命の女 10

 彼女は、神鷹が他の女と関係を持っていることを知っている。

 それは憶測や疑惑などではなく確信で、彼女との決定的な亀裂を神鷹が認識した瞬間だった。

 天罰が下ればいいのに。
 つやのある桃色の愛らしい唇から発せられた言葉が頭から離れない。耳鳴りのように何度も頭の中で鳴り響き、気分が悪くなる。もしもそんなものが下ったとしたら一体どんな裁きが下るのだろう。怖いものなどなにもない気でいたが、途端に恐ろしくなる。地位も名誉もとうに捨てている。あるのは顔の良さだけだ。他にはなにも持っていない。バンドマンとしての道を閉ざされるか? それは自分ひとりの問題ではないから困る。他には、例えば。

 自分の身の回りの人間に、危害が及ぶとか。

 そこまで考え至ったとき、ふとひとつの可能性が浮上する。

 もしも今、得体の知れない人間の影に怯え自分と関係のある女が怪我をしたことこそが彼女の言う“天罰”だとしたら。

 人為的に起こっているこの現象を“天罰”と呼べるだけの理由が彼女にはある。そしてそれを行動に移すだけの動機もある。それに彼女と会っていない間、一体どこでなにをしているかなんて見当もつきやしない。

(そういえば、こんなことが起こるようになったのは最後に彼女と会ったときからだ)

 タイミングよく彼女が帰った翌日に例の手紙が投函されていた。そして会わない間、色々なことが起きた。もしも最後に会った日に、彼女が神鷹に抱いていた疑惑が確信へと変わったなら怒り任せにこんなことをしたとして納得ができる。もしくはずっと前から知っていて、証拠を集め関係のある女の身元を割り出し反撃の準備を整えてからの今なのかもしれない。

(言われてみれば会ってすぐに「変わりはないか?」と物騒なことを訊ねても顔色ひとつ変えなかった)

 いくら物騒な世の中で、予想だにしない出来事が次々に起きる日々だとしてもだ。何事もなく平穏な日常を送っている若い女性にいきなり変な手紙の有無や尾行、不審者の目撃などを聞いたとしたら多少なりとも怯えたり、疑問に思うはずだ。それなのに彼女は「なんかあったの?」という一言で片付けた。そう思うと「変わりはないか?」と訊ねたとき、どうでもいいようなことばかりを楽しげに話してきたのも白々しく感じる。

 彼女がやったのか?
 隣に座る彼女を横目で見る。報道番組からチャンネルを変え、バラエティー番組を見てコロコロと笑う彼女。

 そんなわけないよな、人を線路に突き落としておいてこんな風に、何事もなかったように楽しげに笑う女なんかじゃ、ない、よな。

 確信が持てずに、背中を冷えた汗が流れていく。信じたい、疑いたくなんてない、しかし確信なんてどこにもない。彼女を愛しているのは本当だ、他の女といくら体を重ねてもそれだけは譲れない。もしも金をくれる女たちの全員を失っても、彼女だけが自分のそばにいてくれるならそれでいい。逆を言えば、彼女がいなくなったとして他の女がいくら尽くしてくれたところで神鷹が満たされることはない。

(だってもう、何年一緒にいると思ってるんだ)

 中学時代から知っている彼女だ。高校生になって疎遠になっても、わざわざ「優勝おめでとう」と言うためだけに訪ねてきてくれた彼女。社会人になり寮生活や遠征で会えない時間が続いても待ち続けてくれた彼女。自衛官を辞め音楽で食っていくと決めたときだってそうだ。「応援するよ」と微笑んで、そうして今日までやってきた。そんな彼女を今の今まで疑ったことなど一度たりともないし、疑いたくもない。
 でもそれは、きっと彼女だってそうだ。

 神鷹が浮気していることを知ったとき、彼女だって疑いたくなかったはずだ。信じてここまでやってきたからこそ、裏切られていたとわかったときの失望は大きかったはずだ。だからといって、この天罰を甘んじて受けろというのか? それは違う。神鷹ひとりを責めるならいいが、他の女に怒りの矛先を向けていいわけがないし況してや傷物にしていいわけがない。

 一度疑惑が浮かぶと今までのことさえ疑わしく感じる。「中学のとき好きだった」と彼女は言った。そこだけを聞けば淡い青春として微笑ましいが、少なからず神鷹に対する執着はその頃からあったはずだ。高校三年生になってもわざわざ会いに来るほどに。愛と執着は紙一重だ、可愛さ余って憎さ百倍、愛は憎しみに変わるもの、そういう言葉たちが次々神鷹の頭に雪崩れ込んできて、途端に愛しい彼女を化け物へと変えた。
 一体、いつからだ。いつから俺を、監視していた?

 話を切り出そうとリモコンへ手を伸ばす。真剣に向き合わなければいけない。テレビを消すと「ちょっと! 今見てたのに」と彼女の不満そうな声が漏れる。

「なんなのいきなり」

 じとりと睨み付けてくる彼女の両肩を掴み、真正面から覗き込む。真剣な瞳に面食らった彼女が「今日泊まるからそういうのはあとにして」と検討違いなことをほざいている。そんな言葉すらわざとらしく聞こえ嫌気が差す。
 違う、そうじゃない、そうじゃないだろ、わかってるだろ。首を横に振りもう一度彼女を見据える。今こうして対峙している人間が恋人であり、犯人なのかもしれない。さすがの神鷹も恐怖に目が眩み言い淀む。

「(三日前の朝、なにしてた?)」
「三日前? 仕事だけど」
「(駅のホームで女が落ちた事故、知らない?)」
「なにそれ、どこの駅?」

 とぼけるなよ。
 そう続けようとした神鷹の耳に、つんざくような音が響いた。

 ガラスが割れた音だと理解するまで数秒かかり、更に理解してから我に返るまで数秒かかった。目の前の彼女も呆然としたまま神鷹を見つめている。

 今、なにが起こった……?

 音のした方へ視線を向ける。カーテンが揺れている。窓は閉めきっていたはずだ。足元へ視線を落とす。拳ほどの大きさの石が転がっており「この石を投げ込まれたのか」と理解するなり背筋を悪寒が駆け抜けていった。

「……なに、今の」

 彼女の声や、掴んでいる肩が震えている。いや、震えているのは自分の手か? それとも両方か。腰を上げ、今しがた石を投げ込まれた窓に恐る恐る近づいていく。氷の上を歩いているような感覚だった。冷たく、なんの感覚もない。実感もない。

「危ないって」

 震える声で制止する彼女の声を振り切ってカーテンを開ける。外は闇で包まれており、目を凝らしても犯人の姿なんて見えやしない。

 ああ、いやだ。現役の頃はこんな闇の中、他人の気配を察知することなど容易かったはずなのに。殺気立つ人間を前にして、物怖じなんてしなかったはずなのに。

 いつからこんなに、腑抜けてしまったんだろう。
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