客席を降りてお手洗いまで行くと、なんの間違いなのか変な男の人に絡まれた。これがナンパという奴か、と無駄に冷静な頭はこの状況を楽しんでいるけれど一向に打開策は見つからない。もっと違うことに頭使いなさいよ、とこの時ばかりは自分の能天気さを呪った。
どうしたものか途方に暮れていると「おい」と聞き慣れた声がする。

「あれ?なんでここにいんの」

不機嫌さを隠そうともしない京谷の顔は善良な一般市民を震え上がらせるには十分だった。とは言っても無抵抗の女の子をナンパしている時点で善良ではないのかもしれないけれど。「なんだよ男連れかよ」とぶつくさ文句を言いながらナンパ男達は去っていった。

「こういうときあんたいると助かるね」

素直に述べたお礼もお気に召さなかったのか、京谷は相変わらず難しい顔をしている。それにしてもナンパするような人がビビって逃げる男を、そのナンパ男に何も言えなかった私が安心しているのもまたおかしな話だ。

「お前バカかよ」
「はあ?」
「ほっつき歩いてんじゃねえ大人しくしてろ」
「はああ?」

ただお手洗いに来ただけなのになんでここまで言われなければいけないのか。あまりの言われように反論しようと思ったものの、はたと思い直す。

「心配してくれたの?」
「……。」
「え、ごめんほんとに?」

相変わらずガン垂れる京谷の横顔に訊ねるも返事はなかった。だけどそれこそが答えに他ならない。嬉しさで緩んでいく頬を抑えきれず笑みを浮かべるも、京谷はふいっと顔を逸らしてしまった。「ありがとう」と言っても無視されたので、この可愛らしい男に少しばかりの反撃を試みる。

「嫉妬してくれたとか?」
「あ?」

それには凄んだ目付きで返されたけれど、ちっとも怖くない。




「試合出してもらえないの?」

見に来たはいいものの、やはり長期間のエスケープが祟ってかなかなか試合に出してもらえないようだ。コートをベンチから睨み付ける京谷の様子は客席からもわかるほど苛立っていた。

「そりゃすぐには無理でしょ、なに、落ち込んでんの?」
「なわけねえだろ、バカじゃね」

どうやら次の試合まで少し空くようで、二人並んで客席からコートを見下ろす。
バレーをやっている京谷を、実はまだ見たことがない。
彼を試合に出してほしいのは私とて同じだけれど、そんな体よくいかないのもわかっている。ていうかそれが普通である。いくら実力があっても、チームを乱すような人間をおいそれと入れるわけにいかないだろう。私が監督だったとしてもそうする。贔屓目で見たとしても。
だからコートを動き回る人達に京谷を重ねてみたりもするのだけれど、どうにもうまくはまらない。

「今回出してもらえないんじゃない?」
「……。」
「私のこと睨んでも試合出れるわけじゃないでしょ。反省しろってことじゃないの」

痛いところを突かれたのか京谷は目を逸らした。その視線は真っ直ぐコートに注がれている。闘志を称えながら。
彼の望んでいることはただ一つ。ボールに触れたいのだという純粋で貪欲な気持ち。それが痛いくらいに伝わってきて、私も胸を締め付けられる。そんなことをひっそり思っていると、京谷は静かに口を開いた。

「悪かったな」
「ん?」
「どうせお前暇だろうけど」

彼の中では話の筋が通っているのかもしれないけれどわかりにくいことをまたしても言われ頭の中で組み立てる。少し時間はかかったけれど、彼の言いたいことがなんとなく伝わってきた。

「じゃあ今日試合出れなかったら私にハミチキ奢ってよ」
「ざけんな、てめえが勝手に来たんだろ」
「試合出れたら私が奢ってあげる」

そう言うと納得したのか眉間の皺が消えている。本当に、なんて扱いやすい男だろう。ある意味でこんなに素直な男、きっと他にいない。

「でもほんとはさ」

聞かせるでもなく小さく呟く。返事は求めていなかった。言いたかった、ただそれだけ。

「あんたがいるとこに私もいたいだけなんだよ」

気持ち悪いぐらい引っ付かれても、京谷は決して邪険に扱うことをしなかった。最初こそ、今でもそうなのかもしれないけれどうざがられても、なにを考えているか知りたくて、なにを見ているのか知りたくて、ただそれだけでついてきた。“報われない恋してるね”なんてもう、聞き飽きた。自分でもわかってる。だけど今の状況は、なんとなく違う気がするの。
京谷は前だけ見ていればいい。私はそれについていくだけ。鬱陶しく思われたとしても、見守りたい、ただそれだけ。
わざわざ試合見に来たのに試合に出られなくて京谷が申し訳なく思う必要はどこにもない。そんなのはとんだ勘違いだ。ここに来るのは私が選んだことなのだ。それより。

「大体いきなり出してもらえるとか思ってるあたりほんとかわいいよね」
「ブッ飛ばすぞてめえ」

悪態を吐きながらもなんとなく認めてくれているような気がした。

帰りはどちらが奢ることになるのだろう。でもほんとはどうでもいい。一緒にいられるなら、隣にいてもいいのなら、ほんとはなんだっていい。報われない恋なんてもう言わせない。あんな告白にも近いことを聞いても、彼は黙って聞いてくれていたから、今はそれでいい。それだけでいい。

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