最初から、嘘のような恋だった。

私も彼のことは知らないし、彼にも私のことは何一つ言わなかった。
それでも互いを受け入れたのは、どうしてだか。

彼は言葉の出ない人だった。それは不器用とか口下手などという類いのものではなく、物理的にそうなのだ。
彼がマスクを外したところを、私は見たことがない。古傷があるから見せたくないという、彼の意向を汲んだのではない。
私にも人に知られたくないものや見せたくないものがあるように、彼にもそういうものがあるのだと、なければ態々マスクなどしないと、だから私は見たがったことなどなかった。

ある日突然、彼は私の前から消えた。
いつかこうなることはわかっていた。彼はフラりと現れて、フラりといなくなる人だったから。
彼が来なくなった部屋に、彼の思い出が溢れすぎていて。
こうなることはわかっていても、私には耐え難かったため、彼の痕跡の残る部屋を解約して新たな町に越してきた。

その部屋に越して、数ヵ月経った頃のことだった。
郵便受けでチラシやダイレクトメールや請求書に混じっていた、白い封筒。表には宛名もなく、その白の無機質さに、忘れようとしていた彼を思い出して思わず裏返すと、丁寧な字で「神鷹 樹」と書かれていた。やっぱりな、と思ったと同時に、彼も私のことを忘れていなかったのだと知り嬉しくなる。
宛名もないということは、彼は態々ここまで来たのだ。
普通なら気味の悪い話だが、彼にならそうされてもいいし、そういうのが彼らしいとも思う。
私も彼も大概狂っている。

“幸せになれ”

と、それだけ書かれた紙を何度も何度も読み返し、ボロアパートの前で泣き崩れた夜から、私の見る世界の色が変わった。

嘘だらけで、互いのことはなにも知らない、知っているのはその体温だけで、息遣いだけ。そんな関係だったが、私には大切な繋がりだった。
たまにふらっと現れて、目が覚めたらいなくなっているような、それだけでよかったのだ。それだけで。
気付いたら好きになっていた。だけど彼はどうだ?
そんなことばかりをぐるぐると考え、毎日をこなすように生きる私の視界に色が戻ってきたのは。

横断歩道の向こう側、集団の中、やけに目立つ迷彩柄の帽子が鮮やかだった。信号には目も暮れず、私の前を横切っていく。
信号が変わるのがやけに遅く感じて、青になった途端に私は走り出した。その背中は遠くに感じて、フラりとまた人混みに紛れていったけど、色を失っていた私の目にはその迷彩柄しか色を持っていなかった。

「樹!!」

叫ぶと、ピタリと止まる足。彼は振り向かなかった。

「幸せになれってどういうことよ」

ジリジリと距離を詰める私に聡い彼は気付いているはず。それでも彼は逃げなかった。

「あんな手紙、わざわざ届けに来て、なんなのよ」

突然いなくなるくらいなら、あんな手紙、くれない方がよかった。
そうしたらもっと楽に忘れられたはずなのだ。それでなくとも、勝手に待っていられた。始まりなんて明確じゃない、だったら終わりだって明確にしてくれなくてよかった。
それに。

「本当は忘れてほしくないくせに」

一方的に罵る私に、漸く彼は振り向いた。私と同じ、色彩を失った瞳。まるでガラス玉の様な瞳に、私はいつしか取り憑かれていたのだ。

「あんたはもっと器用だから、あのまま消えることだってできたでしょ」

それをしなかったのは、彼もまた、忘れてほしくなかったに違いない。今、目の前で拳を握り締める彼が何よりもの証拠だ。
その握られた拳は、やがてマスクに掛かり、ゆっくりと下ろされる。
美しいその顔に似合わない傷は、彼の頬から口元にかけて横切られていた。

「帰れる保証がない」

彼のそのたった一言に、全ての辻褄が合ってしまった。

何故いつもマスクをしているか、何故声が出ないのか、何故いつも迷彩柄の服を着ているのか、何故音に敏感なのか、何故気配に敏感なのか、何故災害や戦争のニュースばかり好んで見るのか。

きっと彼は、自分や全ての者達を平等に守る立場にあり、同時に壊しかねない立場でもあったのだ。
だから今まで、特定の誰かに依存することなく、贔屓目で見てしまわぬよう、一人で生きていこうとしたのだ。
だけど樹はまだ若い。恐らく私よりもだ。
全てを悟ったふりをしても、まだまだ幼い彼にその現実はあまりに耐え難かったのだろう。
拠り所を見つけた彼は、安らぎ、同時に常に不安だったに違いない。
私は何も知らなかったのだから。

一度だけ私を見やり、振り向きもせず去っていく彼の後ろ姿をじんわりと歪んだ視界で見つめながら、取り戻せたと思った色彩がまたスッと消えていく。
それでも彼の後ろ姿だけは、ずっと色を持ったまま私の記憶にこびりつき、離れなくなるのだろう。
頬を伝って落ちていく涙が、色彩をも流していった。

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