隣で眠る尾形が寝息を立てたのを確認して、なまえは脱がし捨てられた着物を肩にかけた。尾形の寝室からこっそり抜け出すと暗い廊下はひんやりと冷たく、魔物のよう。裸足の両の足を踏み下ろし化粧を落としに自室へ向かう。

 化粧をしない女は好みじゃない。
 何気なく言ったであろう尾形の言葉は呪いのようになまえを縛り付けた。彼より先に眠ることもなければ彼より遅く起きることもない。惚れた女のなんと健気なことか。そんななまえの乙女心すら尾形は知らないだろう。
 一日中肌を覆い隠していた化粧を落とし床に戻ると、月明かりばかりが明るい暗闇の中で真っ黒の両目がキラリと光って見えた。

「……起こしちゃいました?」
「まあな」

 灯りもなにもない夜の部屋、顔など尾形には見えてはいないのだろうがなまえは思わずうつむく。早く眠りにつきたいけれど、さすがに同衾ともなれば素顔を見られてしまうだろう。尾形はとても目がいいから暗闇でも目が利くことをなまえは知っている。

「そこに突っ立ってなにしてる? 早く来たらどうだ」

 温かいであろう布団をぺらりと捲って、尾形は優しい声でなまえを招いた。顔なんか見えないだろうと高を括って、大人しく布団に入る方が素直でかわいらしい女に見えるのだろうか。それとも万が一素の顔が見えてしまったら幻滅されてしまう? もしもそうなったら? もう、私は捨てられるのかしら。こんな計算高い女こそ、かわいげがないと捨てられるのか。
 一人うんうん考えあぐねていると、抑揚のない声がなまえを刺した。

「化粧落としたのか」
「わかってるなら急かさないで」

 そして私のことは気にせずに速やかに寝てくださいとはさすがに言えるわけがない。しかしこの一言が尾形の興味をひいてしまったらしい。暗闇にぼんやり浮かぶ尾形のシルエットが本格的に体を起こす。

「よく見えん、こっち来い」
「いやです」
「何がそんなに不満なんだ」
「別に、不満なんてなにも」

 化粧をしない女は好きじゃないって自分が言ったことも覚えていないとは全く、厄介な男を好きになってしまったみたいだとなまえは思う。腹の内なんてちっともわかりやしない。もしも本心でなかったのならそれに越したことはないけれど、だとしたら健気に毎朝化粧を施しては彼が寝静まるのを毎晩じっと待っている私を今の今までどう思っていたのだろう。わけがわからなすぎて想像にも及ばない。
 相も変わらず戸の前で指先を弄んでいると、痺れを切らしたのか尾形が立ち上がる。素っ裸で。

「ちょっと、服着てよ」
「別にいいだろ、さっきまであんだけ見たくせに」

 布団の中で見るのと、そういう雰囲気じゃないときに見るのは違う。言っては水を差すだろうから、生娘のように恥じらう素振りを意図的に見せた。しかし背けた頬を厚い両手のひらに包まれてしまっては意味がない。半ば強引に顔を上げさせられると、闇より深い真っ黒な目がなまえを見下ろしている。親指で素の頬を頻りになぞられ、くすぐったくて仕方がない。

「毎日厚塗りしてる割にはきれいな肌してんじゃねえか」
「それはどうも」
「俺のためか」
「どうでしょう」
「健気な女は嫌いじゃないな」

 雲が月を隠し、一切の明かりがなくなると尾形の唇が降ってくる。受け入れて、どうやらこの態度が“不正解ではなかった”のだとなまえが内心安堵していることを目の前の男はきっと知らない。

2018.6.25

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