景色が流れるように勝手に進んでいく。髪や肌やジャージの裾などを生ぬるい風は無遠慮に撫でて、自転車を漕ぐ先輩と後ろ向きに乗っているだけの俺に直射日光は容赦なく降り注いでいる。背中に感じる体温と細い背骨にもたれながら、振り落とされないように錆びた荷台を握り直した。むき出しになって赤く錆びたその鉄は、この自転車の持ち主が少女でいた時間の劣化を思わせた。

「チャリ錆びすぎじゃないっすか、手入れした方いいんじゃないですか」
「いいよ、どうせ卒業したら乗らないし」

キイ、と不愉快な音を立てながら自転車が止まった。高校の入学祝に買ってもらった自転車なのだと、確かずっと前にみょうじさんが言っていた気がする。どうせこの人のことだから、今まで一度もろくな手入れをしちゃいないんだろう。三年間みょうじさんを乗せ続けた自転車は、彼女がブレーキを握る度にもうそろそろ限界であると訴えるために悲鳴を上げているような気がした。

「それにしてもやばい音してますよ、ほんとそういうとこ無頓着ですよね」
「そんなに文句言うなら降りればいいじゃん」
「だから、俺疲れてるんですって」

三年生が引退して、早いことにもう二ヶ月という月日が経っている。最初こそ鎌先さんと一緒になって体育館に頻繁に顔を出していたみょうじさんも、この一ヶ月ろくに顔を見せなかった。聞くところによると就活が忙しいらしい。鎌先さんもそろそろ本気出さないとやばいんじゃないですか、と憎まれ口を叩きながら「本当にこの人たちは卒業してしまうんだな」という実感がそのとき初めて沸いてきた。

「だからって女子に自転車漕いでもらうとかあんたプライドないの?」
「みょうじさんのこと女子だと思ってないんでその辺は大丈夫です」

何気ないやりとりがたまらなく懐かしく感じるのに、みょうじさんはなにも言い返さずに自転車を漕ぎ始めた。信号がもしも青に変わらなかったら、一体この人はなんて言い返したんだろう、と思い至ったところで「それでももしかしたらなにも言い返してくれなかったんじゃないか」と思わずにいられない。それは俺の頭が勝手に生み出した不安でしかなかったかもしれない。でも現に、彼女がなにも言ってくれないことが本当は少しだけ怖い。引退したたったの二ヶ月で、俺がもう追い付けないくらいに大人になってしまったのではないかと思うと不安で仕方がない。

夏休みだというのに制服を着て駐輪場にいたみょうじさんを見かけたとき、てっきり幻覚なのかと思った。去年の夏、まだ一年生だった俺らに仕事を手伝わせたあと、みょうじさんがこっそりアイスをおごってくれたことがあったな、と思い出していたまさにそのときだったから。今なにしてるんだろうな、と考えていたら会えるなんて一体なんの虫の知らせだよと思ったけど、本当は会わない方がよかったのかもしれない。「引退したのに学校来るとかボケてんすか?」と言った自分を後悔した。さっきまで去年のことを思い出していたというのに「願書出してきたんだ」なんて強烈なカウンターを食らってしまったら、圧倒的な現実に頭を殴られたようなもんだ。気の利いたことなんてなにも言い返せなくて、興味ないように努めて振る舞って勝手にチャリに乗ることくらいしかできない自分は、やっぱりこの人に比べたらどうしようもなく後輩なんだろう。そして小言を漏らしながらもそんな俺を許してくれるこの人は、俺にとって紛れもなく先輩だった。ほんの二ヶ月前まで同じ体育館にいたこの人が大人になってしまうのは、もう時間の問題なんだろう。

俺の意思なんか置き去りで、進行方向と反対を向いている俺を乗せて勝手に進んでいく。ちゃっかり乗った自転車も、そしてそれを運転するこの人も。それがなんだかどうしてもたまらなくなって、みょうじさんの汗ばんだ細い背中に思いっきり寄りかかる。

「なに、危ない」
「……部室の鍵閉め忘れたかも」
「はあ!?帰るとき鍵の確認ちゃんとしてって茂庭に言われたでしょ」
「スイマセン、戻ってもらっていいですか」
「いいけど高くつくよ、可憐な乙女が大の男乗せてんだから」
「やだー、俺いま金ないんで体で払えってことですか。みょうじさんのエッチ」
「ガリガリくんリッチでいいよ」

みょうじさんにとっては生意気な後輩だった俺だって一応今は上に頼れない主将という立場なわけで、茂庭さんの言いつけを守って帰りにちゃんと鍵を確認する俺がそんな失態をしているわけがなくて、だからこそもう少しだけ久しぶりに先輩に甘えたって許されたいとも思う。俺も彼女も今はまだ高校生で、誰のことも大人になんてしないでほしい。校門ですれ違った監督から「二人乗りするな!さっさと帰れ!」と怒号が飛んできたとき、先輩が引退する前もよくこうやって一緒に怒られてたなって思い出した俺はやっぱりこの人の後輩なんだろう。

2017.03.09

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