急に恋しくなって非常識な時間に電話を掛けた。寝つけなくて、声が聞けなくても、呼び出し音さえ繋がっていれば安心すると思った夜のこと。

『……なんだよ』

それなのに掠れた声が聞こえて思わず息を飲む。この人は、いつも本当は優しいから。

「起きてた?」
『なわけねえだろ』
「ですよねー」

乾いた笑いが部屋にこだまする。掛けたのは私だけれど、無視してくれたってよかったのに。眠っててくれてもよかったのに。それでもそんなことしないのが、帥仙の優しいところ。

「眠れなくて」
『それで?』
「なんか呼び出し音でもいいから帥仙と電話したら落ち着くかなって」
『だから?』
「えっと……」

それ以上のことなんて考えてなかった。まさか出るとは思わなかった。こうして声が聞けるなんて、思わなかった。
帥仙は目的のないものや筋が通らないことは嫌いだ。怒らせただろうな。そう思っていると受話器越しに溜め息が聞こえる。やっぱりな。ごめんね、切るね。そう言おうとしたのに、先に言葉を発したのは帥仙だった。

『30分時間やるから準備しろ』

それだけ言って一方的に切られた電話。だけどそれは決して落ち込むような終話じゃない。まさかこんな夜中に今から迎えに来るのか。人のこと言えないけど帥仙も大概非常識なのかもしれない。


宣言通り30分後、バイクの音が閑静な住宅街に響いた。私の家の前で止まったその音の主は、確認するまでもない。

「こんな時間になに」
「俺の台詞だ」

隻眼を不服そうに細め、メットを一つ投げて寄越した帥仙。受け取ったそれを不思議そうに眺めていると「さっさとしろ」と急かされた。

「乗せてくれるの?」
「乗らないなら俺は帰るぞ」
「乗せてくださいお願いします帥仙様」

慌てて後ろに座って椅子を掴んでいると、大きな手のひらに手首を掴まれた。そのまま帥仙の腹に回されて、頬は背中にくっつくんじゃないかというほど近づいた距離。私が緊張はしても抵抗はしないのを確認して走り出した。夜は空に居座ったままだ。

闇を裂くように風を切って走るその機械に乗るのは初めてで、帥仙とこんなに近づいたのも初めてで、こんな夜中に家を抜け出したのも初めてで。高揚感が背徳感に勝るとき、人は少しだけずるくなるのだと思う。
このままどこまでも連れ去ってくれたらいいのに。
私の意思じゃない、帥仙の意思でそうしてくれたら私は黙ってついていけるのに。だけど帥仙は人に興味がない、そのくせに優しいから、そしてどこまでもまっすぐだから、私がどれだけ焦がれてもそんなことしない。そしていつまでもそんな帥仙でいてほしいとも思う。私が焦がれた帥仙のままでいてほしいと思う。

帥仙の背中でそんなことを考えているうちに空は白みはじめ、潮の懐かしい匂いがした。私の右側の視界いっぱいに広がる深い青は赤くなりだした空の色を映し出す。

「海だー!!」
「騒ぐな、ちょっと待て」

そんな言い方するくせに、少しだけ弾んでいるように聞こえる声。風が掻き消そうとするのを拒んで私は帥仙の一言一句聞き逃さない。
帥仙は海が好きだと言っていた。その好きな場所に連れてきてくれた。ただそれだけのことが、こんなにも嬉しくて。

機体を止めたのは海岸通の自販機のすぐそば。白けた空を塗り潰すような赤が昇るのを、私は初めて見た。

「うわあ……」

思わず感嘆の声を漏らす。帥仙は鼻で笑って、そのくせ自分だってじっと日の出を眺めてた。抗議しようと帥仙を見上げる。眼帯が走る髪で覆われたその頬に、背伸びをする資格がほしいと思った。いつでもこうしてさらってくれたらいいと思った。

「ありがと帥仙」
「勘違いすんな。俺が来たかったからついでに誘っただけだ」

口角の上がった横顔を染めたのは、迎えた朝焼けじゃなくって私だって思い込んでもいいのか。期待してもいいのか。
聞きたいことは山ほどあった。それでも言葉にする代わりに、確かめるようにその手を握る。絡めてきた指の意味は聞いてもはぐらかされるだろう。だけどそれが答えなんだってことに私だって気づかないわけがない。

次に彼が機体を動かしたとき、自分からその背中に身を任せたらどんな反応をするだろうか。
次に彼が私を連れ去ってくれたとき、聞きたいことがある。聞いてほしいことがある。
夜と共に明けた気持ちと、朝を求めて連れ去った人との関係性は私だけが知っている。

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