天気予報が外れて突然降られた雨に、ずぶ濡れになった私がシャワー室から出ると茶色い頭が小刻みに震えていた。

ああ、そういえば樹は雷が苦手だったなと思い出す。

シャワーの水音でも掻き消さない程の轟音に私も気付いていたけれど、久しぶりに二人で過ごすためそれどころではなかったのだ。

「樹?大丈夫?」

声を掛けると、ゆっくりと振り向いた真っ黒な瞳は少しだけ揺れているように見える。いつもは冷静な彼にしては珍しい。何を言うでもなく真っ直ぐ見つめられて、ガラス玉のような瞳に場違いに胸が高鳴った自分を律したい。樹は怯えているというのに。

「風邪ひくからシャワー浴びてきなよ」

樹は未だ濡れている頭をゆっくり横に振り、隣に来るようにと手招く。膝を抱える樹の隣に腰掛けると、そっと手を重ねてきた。
基本的にドライな樹がこうして甘えてくるのは珍しい。それだけ樹は雷が苦手なのだ。そういう私も、ただでさえ樹と触れ合うことはあまりないので、余計にドキドキしている。

「大丈夫だよ」

そう言って手のひらを返して、ぎゅっと握ると、力強く握り返される。大きな手のひらは、人形のように整った顔をした樹に似合わず温かい。その温度をもっと知りたくて、樹の肩に頭を預けると髪から水が滴って私の額に落ちる。
冷たい頭と、少し上がった私の熱が中和されて心地よい。

「髪だけでも乾かそうか」

視線だけで樹を見上げると、こくりと頷く。触れ合っている時間が名残惜しかったけど、このままでは樹が風邪をひいてしまうから仕方なくドライヤーを取りに立ち上がる。
樹の元に戻ると、一瞬部屋を照らした少しあと轟く雷鳴に、大袈裟なほどびくっと肩を揺らした後ろ姿が見えた。
いつもは頼もしい背中が随分小さく見えて、抑えつけていた愛しさが溢れだして、つい。その背中に抱き着くと、樹はまたびくりと肩を揺らした。

「(髪、濡れてるから、ダメ)」

器用に手話を操る手が、先程まで触れていたことを思い出すと、途端に特別なものに見えてくる。今こうして身を寄せ合う方が、よほど近い距離なのに、樹から触れてきたという事実は特別な意味を持つのだ。

「怖いんでしょ?」

私の言葉に控えめに頷く樹の髪からまた水が滴る。その後ろ姿が艶やかで、色気を孕んでいる。
さっきより腕に力を込めると、居心地悪そうに身を捩られた。

「こうしてると怖くないでしょ」

構わず引っ付いていると、ゆっくり振り向く樹が不服そうに目を細めていた。

会話は手話でしか成り立たないし、感情の起伏は少ない。その表情を読み取ろうにも口元がマスクで隠れてしまっているから、一見何を考えているかわからないけれど樹は意外とわかりやすい男だと思う。
少なくとも私の前ではこうして感情を出すから、私は樹の小さな感情表現も読み取り、見逃さない。
それが彼にとって居心地のよい空間になることを知っているからだ。
彼自身、他人と馴れ合うのを好まない。だけど近い距離に私を置いてくれている現状は、少なくとも心を許してくれているのだろう。

ドライヤーの機械的な音が部屋を包み、窓を叩く雨音が遠くに聞こえる。長めの細い髪を手櫛ですきながら乾かすと、心地よいのか目を閉じていた。
他人に懐かなくて、気を許した相手には存分甘える姿はまるで猫だ。
その相手にさえ上手く甘えられない彼を、全て引っ括めて可愛いと言うと樹はいつも嫌がる。
彼は色んなことを背負い込んでいるから。そして色んなことが見えてしまうから。
私は彼が甘えられるような時間を作ってやりたいし、私自身彼が愛しくて仕方ない。だからこうして二人の時間を持つことで、私にとっても彼にとっても大切な時間になっているといい。

ドライヤーの電源を切ると、またゆっくり振り返ってじっと見つめられる。今までにない感情表現に私が首を傾げていると、そのままゆっくり顔が近づいてマスク越しに唇を重ねられた。

「……ほんとに熱出ちゃった?」

突然のことに驚いて、思わずそんなことを口走ると樹は整った眉をしかめた。ああ怒ってるな、とは思った。
だけど隣に来るように言われ、更に手を重ねてきただけでも樹にしては珍しいのに、こんなこと。
布越しとは言え、初めて触れた唇を思わず見つめていると、綺麗な指がそっとマスクを下ろす。
痛々しい古傷をそっと撫でると、それが合図だったかのように、今度はダイレクトに唇が押し当てられた。

彼が嫌いな雷音を聞きながら、次はいつ触れるかわからない樹の唇の感触を忘れないように何度も角度を変えて口づける。
それは浅いものだったけど、私は幸福で満たされていた。
時折響く轟音に怯える樹の指が私を求めるのを感じて、こんな雨の日なら悪くないと、樹には申し訳ないけどそんなことを思っていた。

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