夏のことだった。私のトラウマに強く染み付いて離れない光景だった。球場に歓声が反響するなか、彼はマウンドで血を吐いた。
ああ、病気は治っていないのだと、そのとき知った。

剣菱は昔から病弱だった。今でこそあの頼もしい体格だけど、昔は本当に細くて、白くて、目にも自信のなさが表れていた。だけどその分、彼は優しかった。それは今も変わらない。

「なまえと凪を甲子園に連れていくからさ〜待っててよ」

そう言って笑った中学の卒業式。剣菱がセブンブリッジに入学したら、寮で生活をすることになる。だらしないし体の弱かった剣菱から目を離すことに不安はなかったわけではないけど、あんなに元気いっぱい鍛えて、なんでも食べるし、病弱だったことなんて私も忘れそうになっていたから。甲子園はあと少しというところで、剣菱の体に限界が来た。


剣菱が運ばれた病院の、治療室の前に凪ちゃんが泣きながら座っていた。凪ちゃんも、知らなかったんだ。剣菱の病気が治ったって、思っていたんだ。

私と凪ちゃんは隣同士に並んで、永遠によく似た時間をただひたすら過ごした。剣菱がいなくなるなんて考えたくないのは、私も凪ちゃんも一緒だ。

「なまえさんは、知ってましたか」

震える声で言う凪ちゃんが、主語を言わなくたって言いたいことはわかった。

「ごめん、私がもっと先に気づいてたら、剣菱は、」
「謝らないでください!私なんて、兄妹なのに、」
「私がもっと剣菱のこと見てたらこんなことにならなかったんだよ!?昔からそうだったじゃない、凪ちゃんが剣菱を見れないとき、私がずっと、そうしてたのに」

言い終わる前に、嗚咽が喉元に詰まった。そうして私達は、赤いランプが灯る中、二人で泣いた。二人で自分を責めながら、二人で違う、悪いのは私だって、慰めにもならない謙遜を、ただただ繰り返していた。
どこまでも青い空が可能性と期待を司る中、球場の真ん中で、反転するような赤を吐き出した剣菱を、私は何度も何度も思い出していた。


あれから、4年。

剣菱はすっかり良くなった。だけどもう前の様に野球はできない。大学に行って、スポーツトレーナーの勉強をして、自分はもう運動することができない代わりに誰かの夢を支える指導者になりたいと言った。その夢も、もうすぐ叶う。
就職活動をしながらの大学四年の夏は、あっという間に過ぎていった。私に何度も悪夢を思い出させて。

「剣菱ー、空が青いよ」
「なまえってばそんな今更なことを」
「やりきったよー、就活。最終選考。私これダメだったらもう就活しない」
「本当に落ちてたらどうすんの〜?」

どうしよう。
そんなことは考えていない。ただ打ちひしがれてしまいそうな程の青に、怖くなった。期待と可能性を象徴している、どこまでも続く青さ。
二人並んで空を見上げていたら、この時間はいつまで持ってくれるのかと不安に思う。当たり前だけど命は永遠じゃない。特に剣菱の場合、そうだ。

「あのさ剣菱」

空を見上げながら、私は言う。剣菱は私を見下ろしていた。面接用にと新調した真新しい7センチヒールのパンプスを履いても裕に見上げるこの大男が、どうして死に近いというのだろう。一体誰が信じられるというのだ。

「私達来年から社会人じゃん」
「なまえがこれ落ちたら就活しないならわかんないよ」
「うるさい、縁起でもないこと言わない」
「なまえが言ったんじゃ〜ん」

ああ、もう。夏が終わる前に、私は何度も魘されたトラウマに決別したいのに。だから聞いてほしいのに。

「今でも、夢に見るの」

剣菱に言ったところで、剣菱を困らせるだけだし、責任を感じてしまうかもしれない。だけどそれなら、私も背負うから。

「こーんな真っ青な空の下で、真っ赤な血を吐く剣菱のこと」

剣菱は口をきゅっとつぐむ。ああ、やっぱり。重荷になって、ごめん。

「どうしてもっと早く気付かなかったんだーとか、どうして言ってくれなかったんだーって。だから夏の青い空が怖いの。いつまた反転するのかって」

次に剣菱が血を吐いたとき、剣菱がそのときまた今みたいに元気になるとは限らない。人は生と死と表裏一体で、安心なんて本当はどこにもない。だけど剣菱は、もっと死に敏感な人だ。だから私はいつでも怯えている。

「ごめん、なまえ。でも俺はあの時、なまえと凪を甲子園に連れて行きたかったんだよ」
「わかってる、わかってるけど、剣菱が生きててくれなきゃ、意味ないんだよ」

剣菱がもしあの時、甲子園に連れて行ってくれたとして、そのあとすぐに死んでしまうなら、意味ない。だったら甲子園に連れて行ってくれなくたって、出来るだけ長く生きててほしいのだ。

「だから、トラウマに決別しようと思ってさ」

剣菱の胸板に額を預けると、それは確かに鼓動を刻んでいる。だから、もう大丈夫。もう怯えなくていい。剣菱の固い腕が、私をぎゅっと片腕で閉じ込めた。

「もうなまえに心配かけないからさ、就職ダメならうちに就職しない?」

剣菱が耳元で囁く。

「なにそれ、プロポーズ?」
「うん。もうなまえとは長い付き合いだしさ〜、俺も就職決まらないとお嫁にはまだもらえないけど」

なまえのトラウマの原因が俺なら、これからは俺がそばにいるからもうそんな悪夢見なくていいよ。


幼い頃からもう、20年近く一緒だった。私のトラウマから、4年が経つ。人生のほとんどを共に過ごしてきた剣菱と、これからはどんな風に過ごすのだろう。

色の反転した夏に怯えたあの日から4年が過ぎて、今度は婚約者として私達の関係が反転した。

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