一人の部屋でテレビを見ていた。暗い部屋に、画面だけが浮かび上がって、まるで自分もその世界に入っていく気がしたのだ。

世界のどこかで今日も戦争が行われているっていう。私が見たことない世界の人が、そうして無駄に死んでいく。
日本のどこかしこでも災害が起こっている。それでも国家は復興より国の繁栄が大事らしい。

秩序が秩序じゃなくなって、誰もが自分を主張して、そうして最後には何もかもなくなっていく。私だって、明日死ぬかもしれないけれど、それよりも。私よりも毎日死に近い彼が、明日消えてしまうかもしれないことが何よりも怖くなった。

《樹ちゃん》《怖い》

私のすぐそばで沈黙を続ける携帯は、彼と繋がっていられる唯一の手段だ。幼馴染みの樹は、軍隊を養成する高校に行って、寮で生活している。お盆とお正月の年に2回、僅かな日数だけ帰ってくる彼の口元を覆うマスクにも、本当は未だ見慣れない。元々口数の多い樹じゃなかったけれど、高校に行ってから手話でしか話さなくなった。きっと声が出ないんだ。そうして私も一生懸命手話を覚えた。心まで樹と離れるのは、耐えられなかった。

短めの着信音と振動が、彼からの言葉を受信したことを知らせる。握りしめていた携帯の画面に《どうしたの》と短い一言。

武軍の朝は早いと樹は言っていた。この時間はもう寝ているはずなのに。返ってこないことも覚悟していた。それでも送らずにはいられなかった。送信できているうちは、彼が生きている証拠になるから。

《死んだらいやだ》《生きてね》

樹はまだ兵の卵だし、明日戦争に行くわけでもない。だけど彼の命がただひたすらに死に向かっている気がした。樹は優秀だ。昔から何だって出来た。野球だって勉強だって、器用にこなせてしまう。そんな彼だから、きっとこの先だって上手に生きていくはずなのに。でも絶対なんてないんだ。彼の場合はもっとそうだ。

《なまえを置いて死なない。大丈夫》

受信する言葉はいつも優しい。彼は言葉が足りなくて、人じゃないみたいに美しい顔をしているから冷たそうに見えるけど、本当は優しいんだ。その言葉に根拠も保証もない。だけどそれだけで安心する。
小さな頃から一緒だった。物静かで何でも出来る樹に私がついて回っていただけだけど、それでも樹はちゃんと私を振り返って手を差し伸べてくれていた。その樹が高校生になって離れて行った。野球の試合はあまり応援に行かせてくれなかった。樹から許可が出たのは、私達が3年になった、樹の最後の大会だった。対戦相手に怪我を負わせて、何度も試合が中断した。見ていて苦しかった。だから樹は私が来ることを嫌がったのだと、その時初めて知った。
樹は素直な人だ。だから自分のチームも学校も間違ったことなんてしていないって、そう信じ込んでいる。私にとっても樹は絶対だ。だから樹や樹のチームメイトがしたことは、悪いことだけど、責任を問うならそれを教え込んだ大人が悪い。樹から声も公正な気持ちも奪った、大人が悪い。樹を真っ直ぐ死に向かわせる大人が悪い。

未だ画面で繰り広げられる世界の惨状に、痛む心から血が流せたらこの世界がどれだけ狂っているか伝わるのに、心は血を流せない。だから代わりに涙を流す。いつか樹が目の当たりにするであろう光景に、今画面越しに見ている光景の中に、いつか樹を見つけてしまう可能性の恐ろしさに。

樹が武軍に進学してから、私は戦争や災害というものに敏感になってしまった。それまで他人事と思っていたこと自体が間違っていたのに。死はいつだって隣り合わせだったのだと、樹が思い出させたんだ。安全なんて不確かなもの、本当はどこにも存在していないのだ。

画面がその惨劇を伝え終わって、天気予報に切り替わる。
明日の天気は予想できても、その天気に備えても生きられるかなんてわからない。完全に順番を間違えている。それでもその不確かな明日のために、確かめるように生きるしかないのだろう。

こんな馬鹿げている世界を画面越しに眺めているのが嫌になってテレビを消すと部屋が静寂に包まれる。そのまま目を伏せると本当に世界が終わっているように錯覚する。
樹もいない。今日は両親とも仕事や飲みで家にもいないから、余計にそう思った。

ふと、家のチャイムが鳴り響く。家族なら鍵を持っているから、チャイムなんて鳴らさない。
インターホンを確認すると、見知った茶色の頭とマスク。

施錠を解いて扉を開ける。樹は真っ直ぐこちらを向いていた。

「樹ちゃん、寮の門限は?」
「(許可とって、抜けてきた)」

流暢な手話を操る樹の繊細な手が私に伝えたあと、その手が私の頭に優しく置かれる。大きくなった手。見た目よりゴツゴツしている。
「ごめんね、私、」
心配になって。
言葉にすることができなかった。テレビを見て勝手に心配したのは私だ。そしてそのリスクを知っても進路を決めたのは樹だ。心配することなんて甚だ間違っている。だけど自分達が高校3年生になって、進路が目の前に迫った今、樹のこの手の温もりをあとどれくらい感じることができるのか怖くなった。

言葉にせずとも彼には伝わってしまったのか、その手が後頭部をするりと撫でてそのまま樹の肩口に頭を押し付けられる。無機質な匂いと比例する温度に、いっそこのまま時間が止まればいいと思った。私の手は、無駄のないしなやかな樹の腰を掴む。

「樹は、兵隊になるの?」

私の頭の上で樹が頷いたのがわかる。誰かを守る仕事だ。崇高な仕事だ。誇るべきだ。樹がいなくなるのが怖いから、なんてそんな幼稚な理由で引き留めるには、あまりに誉れ高い仕事ではないか。

「死なないから」

絞るように喉から出された声は、紛れもなく樹の声だった。
掠れていて、声を出すのもツラそうだ。それでも樹が手話よりも、この近い距離を選んだことが嬉しい。私はどこまでも我儘だ。

「なまえを一人にしない」

未来というのは、私が探そうとするよりもっと不確かで、見つからないからこそこうして寄り添って、保証のない決意を語ることができるのかもしれない。どちらかの体温がいつか冷めてしまっても、この体温を忘れさえいなければどちらかの心の温度だけは冷めないでいられる。だから一人になったって、この言葉を信じているうちは孤独になんてならないと、そう思いながら目を閉じた。樹の呼吸は穏やかに、それでも確かにここにある。

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