海も緑もお天気も、そして人が作り出すものだって、どんなものも見逃さないように人間には目があるのだと信じている。でなければ、人の目を楽しませるようなものをわざわざ作る必要があるのかと思うのだ。世の中は綺麗なもので溢れているような気がしてならない。

「おいこら、どこ行く気だ」

生徒玄関で上履きを脱いだところであえなく現行犯逮捕。お前はこっち、と連れ戻す黒尾の手は、とても同い年の高校生のものとは思えない。これだって見逃さないように、私は目を丸くして自分の手の行方を追う。真っ赤なジャージのポケットに導かれる私の手はとても小さく見えた。だけどこの状況は決して甘いものではなくて、まるで逃走犯を確保した手錠のようだと思う。帰路へと急ぐ生徒達の中、私は黒尾によって逆走させられている。

「お願い見逃して、帰りたい」
「ふざけんな、お前がバックれるからわざわざ連れ戻しに来てんだぞ」
「私テレビ見たいの!」
「んなもん録画してこい、ほら行くぞ」

録画してくるのを忘れた自分をこのときばかりは恨む。私が原稿用紙に向き合っている間、彼は画面の中で世の女の子を骨抜きにする笑顔を向けるのだ。私も彼に骨抜きにされたいのに、その間なにが悲しくて反省文なんて書いていなければいけないのか。遅刻した私が完全に悪いけれど。

「ていうか私毎回同じこと書いてるじゃん、先生には私の気持ちが伝わらないのかな」
「誠意伝わってると思ってるあたりお前やべえよな、遅刻してんのどこのどいつだ」
「なにその私が反省してないみたいな言い方」
「反省してんなら心を改めて遅刻しねえことだな」

世の中は綺麗なもので溢れていると同時に便利なもので溢れている。私が知りたいと思ったものはなんだって手元の端末で見られた。一日は24時間じゃ絶対に足りない。夜はもっと長くたっていい。出来ないのなら朝はもっと遅く始めればよいのだ。

「屁理屈言ってんな常習犯」
「ほんとのことなのにー!」
「連れてきましたー」

生徒指導室の扉を開けると黒尾は私を中に放り込む。黒尾めかわいい彼女を売るとは何事か。某童謡の売られる子牛ばりに黒尾を見つめるも、黒尾はあっさり私を引き渡した。

「んな目で見んな」
「黒尾なんかもう知らない」
「あっそ。俺は好き」
「そんなんで騙されないんだからね!」
「なに顔赤くしてんだよ」

17、8の小娘が不意打ちで食らうにはあまりにも直球な言葉だ。こういうのをさらりと言ってしまうから質が悪い。しかも言った当の本人には全く照れがない。

「黒尾ありがとなー、みょうじはそこ座れ」

隙あらば逃げ出すつもりが生徒指導部の監視の下ではできるはずもない。先生が座っている机の目の前を指され、泣く泣く腰を下ろす。

「終わったら迎え来てやっから大人しくしてろよ」
「わかった5分後ね待ってる」
「バカ、こちとらミーティングだっつんだよ」
「イケメンが私を待ってるの!」

私の悲痛な叫びは虚しく、黒尾が閉めた扉に跳ね返されてしまった。かつてないほど集中して筆を走らせる。400字詰めの原稿用紙はあっという間に3枚埋まった。
「もう遅れんなよー」という先生の言葉を背に今度こそ学校から逃走をはかる。あと10分。開始には間に合わなくとも急げば少しくらいなら彼の笑顔を見られるはずだ。

「お前、待ってろっつったろ」

またしても捕獲されてしまった私の手は、ローファーに届くことなく宙をさまよう。手首を掴んだ手の持ち主に顔を向ける。そこには相も変わらぬ無表情の黒尾がいた。

「イケメンが“なまえちゃん早く帰っておいで”って呼んでる気がするの」
「んなわけねえだろ現実見ろ」
「ほら黒尾走るよー!」

ローファーの爪先で地面を何度か蹴って振り向く。嫌味かと疑うほどゆったりとした動作でスニーカーの靴紐を結び直す黒尾を急かすも、黒尾はにやりと口角を上げた。

「えっ、こわ。なんで笑ってんの」
「お前さあ、俺とそのイケメンどっちが好きなわけ?」
「今そういうのいいから早く」
「答えるまで帰らねえぞ」

珍しく子供じみたことを言い出す黒尾に戸惑いつつ答えを探す。ちなみに黒尾に手首を掴まれているので、面倒くさいとは思いつつ黒尾を置いて帰るという選択肢はない。
黒尾は玄関に腰かけたまま、私の様子を窺っている。こうして黒尾を見下ろすことが新鮮だと感じる、だけど黒尾の上目遣いはあんまり可愛らしくはないからやめてほしい。
ここで私が心臓を鷲掴まれているイケメンの名前を口にしたらどうなる。黒尾にとって気分はよくないだろう。それよりもなによりも、黒尾とイケメンを天秤に掛けること自体がそもそもナンセンスだ。だってイケメンは皆のものだから私のそばにはいてくれなくて、黒尾は面倒くさいところもあるけれど、同じくらい面倒くさい私のそばにいてくれる。

「イケメンは見て楽しむものだけど黒尾は一緒にいて楽しい」
「で?」
「あーもうわかったよ、黒尾クン好き超好き大好きほら早く帰ろ」
「最後投げやりすぎねえか」

呆れたように黒尾は笑うけれど答えとしては充分だったようだ。やっと重い腰を上げてくれたので、私はほっと息をつく。

「久しぶりだな、一緒に帰んの」
「だって黒尾キャプテン多忙じゃん」
「だからイケメンに目移りされんのも我慢しろって?」
「そこ張り合う必要ある?」

私の手首を掴んでいた黒尾の大きな手のひらが、そのまま私の手のひらまで滑り降りていく。確かめるように指を絡めれば、想いはちゃんと伝わっているはず。

「久しぶりだし遠回りするか」
「私急いでるって言ったじゃん」
「俺のほうが好きならもう急ぐ必要ねえだろ」
「出たー、ここに来てまさかの黒尾構ってちゃんモード」

もう今日は諦める他ないだろう。母が気を利かせて録画していることを願いながら、黒尾と一緒に帰れる貴重な日。こんなにも贅沢な日があるのなら、やっぱり一日は24時間じゃ絶対に足りないと思うのだ。

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