ぽつりぽつり。
屋根と時刻表があるだけのお粗末なバスの待合室の屋根を雨が叩く。携帯の小さな液晶の中で繰り広げられる男女二人のロマンスの声を悪気なく掻き消しながら世界を濡らした。
傘持ってくるんだったなあ。
朝からぱっとしない天気だったにも関わらず鞄一つで学校に乗り込んだ今朝の自分をこのときばかりは呪った。お陰で楽しみにしていた再放送のドラマをこうして屋外でワンセグにて見る羽目になっている。学校の方から色とりどりの傘を手に帰路につく生徒を恨めしげに眺めた。今日は雨だというのに、バスで帰る人はほとんどいない。
ドラマも終盤、二人がくっつくかくっつかないかの瀬戸際。見ているこっちがドキドキしながら固唾を飲んでいると、頭上から声が降ってきた。

「みょうじさん?」

その声に顔を上げると透明のビニール傘を持った茂庭くんがいた。

「みょうじさんバス通だっけ?」
「違うよー、傘忘れちゃって」
「え、天気予報見てなかったの?」

茂庭くんからの問いかけに黙ってしまう。天気予報を見るまでもなく天気なんて知れていたのに、それでも持ってこなかったのは私の散漫が招いた結果である。かっこよく言うと賭けたつもりだった。あえなく惨敗したけれど。
茂庭くんをちらりと見上げると、困ったように眉を下げて笑った。

「茂庭くんもバス?」
「いや、違うけど」

茂庭くんはとても優しい人だ。待合室で一人、ドラマの再放送を見ている少し残念なやつにわざわざ足を止めて声を掛けてくれるほどには。私に構わず行ってくれ、なんて芝居がかったことを心の中で言ってみるも、本当はもう少しだけ話したいと思っている自分がいる。
茂庭くんからの親切を一つ受け取る度、“私は茂庭くんのことが好きなのかもしれない”と思ったりする。あくまで仮定の域を出ないのは、茂庭くんの親切が私一人に向くものではなくて大抵の人に惜しみ無く分け与えられているものだと知っているから。だけど、例えば茂庭くんが他の人に優しくなくて私だけに優しい人だったならそんな仮定も浮かばなかったようにも思う。

「バス停から家近いの?」
「ううん、五分くらい歩く」

素直にそう答えると、茂庭くんは持っていた傘を差し出した。小さな待合室の中、今、茂庭くんと向き合っている。

「止みそうにないと思うよ」
「でも、」
「折り畳みもあるから俺はいいよ」

そう言って茂庭くんは鞄から黒い傘を取り出した。
茂庭くんのそういうところが好きなのかもしれない。どういうところ?傘を二つ持っているようなぬかりのなさか、こういう状況で折り畳み傘じゃなくてわざわざビニール傘の方を貸そうとするところか、そういうのをさらりとやってのけるところか、或いはその全てか。
受け取るべきか悩んでいる私の答えを待たずに茂庭くんは開いたままの傘をそっと私の足元に置いた。そのまま黒い傘を開いて雨の中に消えていく。遠くなる背中に、胸がきゅうっと締め付けられた。
茂庭くんからの親切をまた一つ受け取ってしまった。だけどその一つが、積もりに積もった仮定で決定的なものとなる。
いいところだったドラマの行方なんて、どうでもよくなる。あと少しで来るはずのバスなんて待っていられない。茂庭くんが置いていった傘を引っ掴んで走り出す。歪んだコンクリートに溜まった雨がバシャバシャと足元を濡らしていくのも気にならなかった。追い付きたい背中が振り向いてくれるなら、どうでもいい。
雨は強さを増すばかり、それでも鞄の中のペンケースがガシャガシャと音を立てたのも相俟って茂庭くんは振り向いた。

「受け取れない、から」

そのとき茂庭くんは少しだけ困った顔をした。困りたいのは私の方だ。傘くらいありがたく受け取ってもなんのバチも当たらないかもしれない。それでも茂庭くんから欲しい優しさは違う。

「一緒に帰りたい、です」

茂庭くんの優しいところが好きだ。その優しさに微塵もいやらしさやわざとらしさがないから余計に好きだ。だけど少しだけ期待したかった。あの状況で、傘を置いていくだけなんてあまりにも優しすぎるんだ茂庭くんは。
私がさっきまで見ていたドラマみたいな甘さは少しもない。ここにあるのは拙すぎる現実で、だけど私にはとっても大事な展開で、ドラマよりもっとドキドキする。
しばらく目をパチクリさせるだけだった茂庭くんが傘を畳む。ビニール傘を受け取って「みょうじさん家どこ?」と訊ねた茂庭くんが半分空けてくれたそのスペースに身を滑り込ませた。

今この瞬間くれた優しさも、他の人にあげている優しさと同じなの?
一瞬過った疑問にかぶりを振った。だってそんなはずがないことくらいわかっている。親切だからといってお人好しではないことくらい、思わせ振りじゃないことくらい、その親切を歯がゆく思っていた私が知らないはずがない。

「茂庭くんの優しいところ、好きだけど好きじゃない」
「えっ!?ごめん」

私に合わせてゆっくり歩いてくれるところや、私の方だけ低くなるように少しだけ傘を傾けてくれる優しさは好き。だけどそのせいで肩を濡らす茂庭くんは好きじゃない。だから。

「肩濡れちゃってるじゃん」
「え?ああ、大丈夫だよ」

だからそうじゃないんだってば。
小さく苦笑した茂庭くんに言いたいのは、だからもっと近くに来てよってこと。それは今の物理的な距離だけじゃなくて、茂庭くんの特別になりたい。家に着くまでに話せたらいいな、なんて思いながら積もりに積もって溢れ出してしまった想いを噛み締めた。

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