春の訪れを感じつつ、まだ肌寒い昼下がり。柔らかい日差しが嘘みたいに感じるのは刺すように冷たい風が頬を撫でるからで。下ろし立てのトレンチコートではまだ寒かったか、と少し前の自分のしくじりを嘆く。ちょっとお散歩、と出てきたもののこんなことなら家でぬくぬくしているんだったと後悔に駆られた。
後悔は溜め息となって白く宙に漂って消える。ぷかぷか息を吐いていると、前の方から近所の男の子が歩いてくるのが見えた。

「あ、なまえさん」

小さく会釈するのは茂庭さん家の要くん。小さな頃から落ち着いたいい子だったけれど、すっかり背が伸びて顔つきも大人になってしまった彼に実はひっそりときめいているだなんてとてもじゃないけど言えない。

「どうしたの?今日平日じゃないよね?」

見ると要くんは制服を着ていて、よく見るとその胸ポケットには花が差してある。聞いてから気づいたのは、今日高校生は卒業式だということ。

「あ、そっか。卒業式。おめでとう」

自分から言い出しづらかったのか言い淀む要くんの先回りをして言うと彼は「ありがとうございます」と微笑んだ。その礼儀正しい物腰がいいんだよなー、なんて思うけれど、昔とのギャップを思うとやはりおもしろくない。彼だって今日高校を卒業するほど大人になってしまったのだ。いつまでも私のあとをついて回る子供じゃないのはわかっている。

「そうだ、お腹空いてる?ご飯奢ってあげようか」
「いや、悪いですよ。俺なまえさんの成人式なにもしてないし」
「えー、要くんとバッタリ会えただけで嬉しかったけどなあ」
「またそうやって」

眉尻を下げるのは彼の癖らしい。こういうとき私と彼の年齢差がわからなくなる。働き出した私の周りにいる人よりも彼の方が大人な気がしてならなくなるのだ。

「卒業してからどうするの?進路決まった?」

目的のない私は目的のある要くんについて回る。あの頃と立場が逆転したなあ、なんて思ったり。

「就職決まりました。三月末から研修です」
「そっかー。おめでとう」

出会いと別れの春。雪融けを待ち遠しく思わない春もある。
私もそうだったなあとは思うけれど、目の前の彼は不安よりも先にがんばろうという気持ちが勝る子なのだと思うし昔から器用な子だった。彼に待ち遠しくない春なんてないのではないか、そう思う。

「要くんはすごいよ」
「えっ、なんですか」

目を丸くする要くんが昔の要くんのようにあどけなくて思わず小さな笑いが溢れる。私は嫌な大人で、嫌な女に育ったなあなんて思う。

「私より要くんの方がよっぽど大人だなってこと」

笑って言ったはずなのに、どこか寂しく思ってしまう。まだ私も要くんも子供の頃、私の方が「要くんと結婚する」なんて騒いで、その度要くんは困ったように笑う。どちらが年上なのかわからなくなるのは、随分昔からのこと。今更それを感慨深く思ってしまうのは、やはり私が彼に惹かれているからに他ならない。さっきまで高校生だった近所の男の子をそういう目で見ているなんて男に餓えていると言われても文句は言えないけれど、それを差し引いても彼は魅力的であることを私は幼い頃から知っている。

「あの、」

要くんが珍しく上擦った声で言うので、隣の彼をちらりと見上げる。いつの間にか身長も越されて、声変わりをしてしまっても、こういうときあどけないなあ、なんて安心したりもする。

「この前言ったこと覚えてますか?」

やけに真剣な目をした彼から目が離せなくなる。この前、話したこと。
大人ぶった発言を、帰ってから冷静になって撤回したくなったことを思い出す。嫌な女に映っただろうなあ、なんて。

「ごめん、あのときひどいこと言ったね」

謝ったところでなかったことにできるとは思っていない。嫌な女で、暇な大人から口説かれたなんて未来ある18歳の男の子からしたら冗談じゃないだろう。この年代の男の子からしたら2つ離れていただけでも“おばさん”の対象に十分なり得る。そう思っていたのに。

「ほんとですよ」

小さく呟いた要くんに息が詰まりそうになる。嫌な女で暇な大人で、更に余裕のない面倒なおばさんで、本当に私はどこまでも救いようがない。しっとり瞳を濡らしていると、彼はとんでもないことを口にした。

「卒業したしもう犯罪にならないよな」

思わず顔を上げたのは久しぶりにタメ口で話してくれたことへの驚きではなく。その言葉の裏が読めないほど私も子供じゃないからである。下唇をゆるく噛む要くんの横顔は、さっきよりも大人に見えた。

「なまえちゃんのこと迎えに行ってもいい?」

そう言って冷えた指を絡めてきた要くんが顔色をひとつ変えないのに、私の方が肩を揺らしてしまう。余裕ぶって無言で頷いてみたりもしたけれど、やっぱり彼の方が私の何倍も大人な気がしてならないのは気のせいなんかじゃないだろう。
雪融けを待たずに訪れた春はやっぱり寒くて、繋がれた手と赤く染まる頬だけが熱を持っている。悟られないように煙に巻いたのは白い息だけで、握り返した手は至って正直だった。

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