冬の冷たい空気が煙と共に肺を満たしていく。澄んだ空に光る星まで届くのではないかと立ち上る煙の行方を目で追ってみたものの、それは宙に溶けるように分散されて消えていった。
東京はもっと星が見えないのだと思っていたけれど、そうでもないみたいだ。
月のない夜、目を凝らして見た星は、地元で見ていたものより紺碧に埋もれてしまっているけれどその分ありがたみを感じる。当たり前のように空を星が満たしていた地元では、今夜の星はどう見えているのだろう。無意識にそう考えていたことに気付き、またしても私はこの街を出ようとしていたと呆れ返る。

地元、帰ろうかな。

社会の波に飲まれていくうちに、ふとした拍子で思うこと。それはいつか突発的に口を突いて出ていきそうで、私はいつも堪えるように奥歯を噛み締めていた。
例えば上司に怒られたとき、例えば仕事が立て込んだとき、例えば予定のない休日にテレビの前で一人言を呟いた自分に気がついたとき、例えば灯りのない部屋に帰ってきて声を掛けてもなにも反応がないとき。
都会に夢見たあの日の少女が、今の私を知ったらどうするのだろう。違う道を選んだだろうか。それとも、疲れきった今の私ですら憧れるのだろうか。もう、どっちでもいい。

逃げることは弱いことだと、あの日の私なら思うのかも知れない。だけどこうして日々弱っていく精神を携えて亡霊のように生きるのが美徳だというのなら、それこそが弱者の成れの果てだと私は思う。やれどもやれども終わらない仕事を遂に家に持ち帰ってまでやることが、果たして強い人の生き方だと言えるのだろうか。そこに生き甲斐を感じないのなら、それは奴隷となにが違うと言うのか。そう考えるほどには今、蝕まれているのではないかと思う。

ふと自分が泣きそうになっていることに気づいて、拭うことは泣いたと認めることになるから絶対に溢れないよう夜空を見上げる。強がることでしか自我を保てない。生きていくことがこんなに難しいなんて、あの日の私は想像できただろうか。

もう一服したら帰ろう。缶コーヒーのプルタブを開けようとして、かじかんだ手がうまく動かないことに気付いた。ああもう、なんで私はもっと上手に生きていけないのかと四苦八苦していると、コンビニから出てきた長身の男の子がそれをスッと奪った。何事かと見上げると、彼は無表情のまま容易くプルタブを開けて私の方に突き返してくる。

「……ありがとうございます」

たぶん年下だとは思うけれど、彼の纏う独特な雰囲気に気圧されてつい畏まる。私が缶を受け取ると、彼は口元を歪めた。

「お姉さん仕事帰り?」
「え?まあ」
「お疲れ」

こうして労われるのは、いつぶりだろうか。驚きで一度引っ込みかけた涙がまた込み上げてくる。ダメだ、年下の男の子に泣いているところを見られたりなんかしたら惨めになる。ぬるくなったコーヒーと共に泣きたい気持ちを飲み込んだ。それを見破ったのか、彼は大きな手のひらで私の頭を撫でてくる。突然のことに私はまた驚く。

「え、なに」
「いや別に?お姉さん泣きそうだったから」

片目が髪で隠れている彼の三白眼は、なにもかもお見通しと言わんばかりで目を逸らした。見るとこの少年、顔立ちや体格は大人より大人っぽいけれど部活のジャージらしきものを着ている。高校生だろうか。さすがに高校生に慰められるなんて情けない。だけどきっと私は、彼に慰められなくたって情けない大人なのだ。どうしようもない、大人なのだ。
冬の重たい雲が雨と共に暗い気持ちをもたらすみたいに少しずつ蓄積した自己嫌悪に陥る。今夜は雲ひとつない夜だというのに。

「お姉さん」

ぽんぽんと優しく頭を叩いていた手がそのまま後頭部へするりと撫でるように下りてくる。相変わらずなにを考えているかわからない表情に困惑していると彼は苦笑を漏らす。

「別に取って食ったりしねえよ」

そんなのわかっているけれど、彼の言葉に私も少し安堵する。なんとなく、行きずりの彼なら愚痴くらい溢してもいいのではと思った。

「大人って大変だね」
「俺に言われてもわかんねえけど」
「そうだね、ごめん」

それだけのことなのに、少しだけ気持ちが落ち着いた。それだけのことなのに、それだけのことを私は誰にも言えなかったのだ。
安心感からかポケットに入れておいた煙草を取り出すと、その手は彼に容易く捕らわれた。そのまま私の手から煙草を抜き取ると、あろうことかぽいっとゴミ箱に捨てられる。

「あっ!ちょっと!!」
「ストレス溜まってんのはわかるけど女が煙草吸うのは感心しねえな」
「大人はツラいの。いいよまた買うから」

溜め息をひとつ溢すと、少しだけ軽くなった胸の内。幸せが逃げるだとか言われているけれど、そんなの気にして溜め息すら吐くのを堪えるようになったのは、そういえばいつからだろうと思い起こす。
悔しいけれど、この少年といると気持ちが少しずつ楽になることにも気付いてしまった。

「口寂しいってやつ?」
「そういう感じ。大人しかわかんないよ」

大人と言っても喫煙者が肩身の狭い思いをしている昨今では吸わない人も多いから一概には言えないけれど。代わりに冷たい空気を肺いっぱいに吸い込むと、綺麗な空気が循環していくように頭も冴えてきた。
ふーんと興味無さそうに返事した彼は、やがて名案だとばかりに悪そうな笑みを浮かべた。

「お姉さんさあ」
「うん?」

そう言って、固い指の腹が私の顎をくいっと掴む。そのまま彼の方を強制的に向かされて、更に近づいた顔に視線を泳がすも、彼はこっちを向けと言わんばかりに距離を詰めてくる。年下の男の子に、しかもコンビニの前でなにをやっているんだ私。

「口寂しくなったら相手してやろうか?」
「お、大人をからかうんじゃないよ」
「本気だけど?」

意地悪く笑う彼と一瞬目を合わせてみたけれど、どくんと脈打った心臓に耐えきれずすぐまた逸らす。

「犯罪になるんだからね」
「同意の上なら関係ねえだろ」

こんなことが言えてしまうくらいには彼はやはり高校生なのだろう。って、なにをほだされているんだ私。気をしっかり持て。

「と、とにかく、だめだから」
「ふーん」

そう言ってあっさり離れていく彼を名残惜しく感じた時点で、私はもうどうしようもなく彼に落ちたも同然なのかもしれない。痛いくらい鳴り止まない心臓を抑えながら、ちらりと彼を盗み見る。さっきまでの笑みはどこへやら、また無表情に戻ってしまった。

「ま、あんま気張りすぎんなよ」

後ろ手を上げて去っていく彼の背中を呆然と見つめる。赤いジャージの長身。きっとどこかで彼を見つけてしまったら、私は簡単に見つけてしまう自信がある。それは彼の体格や髪型が目立つからなんて理由じゃなくて、もっと別のこと。
もう少しこの街にいてみようかな、と思った。冷めた缶コーヒーを飲み干して、ライターってどうやって捨てるんだっけと思い巡らせたことに気付いた冬の夜。

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