年明けから一段と冷えた空気の中を愛犬と共に歩く。馬鹿みたいに寒いのにリードで繋がれた我が茂庭家の愛犬は、嬉しそうに外を満喫していた。時折すれ違う人や車に興味を示す相棒の手綱をくいっと引っ張り現実に連れ戻すのが俺の役目。それなのについ俺の方がすれ違う人に興味を持ってしまったのは、それが振り袖を纏った近所のお姉さんだったからだ。

「あ、要くん。久しぶり」

艶やかに歩く姿に目を奪われていると、俺に気づいたその人は笑顔で声を掛けてきた。

「お久しぶりです、あ、今日って」
「そ、成人式だったの。いま帰ってきたの」
「おめでとうございます」

祝福の言葉を掛けると紅をひいた唇はきゅっと口角を上げた。長いまつげを伏せてありがとうと笑う姿は、本当に綺麗だ。幼い頃から知っていた彼女だったが、その彼女も成人を迎えたのかと少しだけ切ない気持ちが燻る。
俺の足元で嬉しい人物の登場に尻尾を振るそいつに、袖を気にしながらもしゃがみこんでよしよしと撫で回す。折角の晴れ着に犬の毛がついては大変だ、と「こら、やめなさい」とたしなめるもなまえさんはあっけらかんとして笑っていた。

「大丈夫だよ、ちゃんと洗うから」
「でも」
「私の綺麗な姿に尻尾振っちゃって、ほんとかわいいんだから」

自分で言うなよ、とは思うものの本当に今日のなまえさんは綺麗だから返す言葉が見当たらない。肯定できずにいるのは、例えば俺がなまえさんに憧れていたとしてその人に簡単に言えるほど自分には度胸などないからだろう。

「ていうか要くん、久しぶりに会ったらかっこよくなった」

依然として犬の頭を撫でながらぼそりと呟いた言葉に、動揺がリードを伝ったのか愛犬は俺の反応を伺うように顔を上げた。さっきまでなまえさんばかり見ていたくせになんなんだ。
久しぶりに会って変わったと言えば、俺よりなまえさんなのではないかと思う。あどけなさがなくなって垢抜けた様に見えるのは、なにも振り袖や化粧のせいだけではないだろう。所作や言葉遣い、話し方、そういうなにもかもが落ち着いていて、彼女をより一層大人っぽく、そして品よく見せていた。

「なまえさんの方こそ」
「え?」
「なんていうか、その」

なかなか言い出せずに言葉を濁していると、彼女は悪戯を思い付いた子供のように笑った。大人っぽくなった彼女と無邪気なアンバランスさが色っぽく見えて途端に心臓が脈打った。

「綺麗になったって?」
「まあ、はい」

あまりに本当のことだったので否定することなどできずに頷くと俺の足元で彼女は目を丸くした。まさか素直に肯定されるとは思わなかったのだろう。

「やだ要くん、なにも出ないよ」

その台詞と、よいしょ、と立ち上がる姿は決してハタチのうら若い女性とは思えないが、今の綺麗すぎるなまえさんにはそれくらい庶民じみてる方が俺は安心する。

「要くんもそういうこと言うようになったかー」

白い息を吐きながら、これまたおばさんくさいことを言い出す彼女が本当に大人になってしまって、そして自分がまだ高校生なのだという現実を突き付けてくる。たった二つ離れているだけじゃないか。それなのに。

「昔は“なまえちゃん”って慕ってくれたのに」
「今は俺もなまえさんも忙しいじゃないですか」
「あーもうそれ、いつから私のこと“なまえさん”って呼ぶようになったの?敬語なんて使っちゃってさ」

年を重ねるごとに知らず知らずできあがった距離がお気に召さないのだろう。彼女は血色のよい頬を膨らませて俺を睨む。
いつ、そんなこと言われても明確じゃない。でもそれは例えば中学のとき、二つ上の学年の人を先輩と呼ぶようになった頃からな気がする。

「俺の方が年下ですし」
「なにそれ。要くんとなまえちゃんの仲じゃん」
「それは昔のことじゃないですか」

小さく苦笑するも、へそを曲げてしまった彼女には通じない。思えば昔からそうだった。この年上の女性は、時に子供のように駄々を捏ねるのだ。そういうところが可愛いんだよな、とか、本当は思ってないわけでもない。
それでも年の差があるというのに、そんなに親しげに名前を呼ぶなど自分にはできない。なぜならそれはまるで男女の仲である二人が呼び合うもののように思えるからだ。工業高校という女子が極端に少ない学校に三年間身を置いた結果、そういう面を知らず知らずの間にこじらせてしまったようだ。

「じゃあどうしたら前みたいに呼んでくれるの?」

今まさに考えていたことを言葉にするのはできずに目線を泳がすと、彼女の冷たい手のひらが俺の頬を包む。突然のことに驚いて彼女の方を向くも、思いの外近くにあった小さな顔にまたしても視線は宙を彷徨うこととなった。

「要くんの彼女になったら呼んでくれる?」

耳元に形のよい唇を寄せて言った彼女に、自分の耳が熱を持つのがわかった。きっと今赤くなっているはずだ。それは寒いからなんかじゃない。思春期の男一人捕まえて、そんなこと言わないでほしい。ただでさえ昔からの憧れの人だというのに。

「あ、でも私もう成人だから要くんと付き合ったら犯罪になるのか」

思い出したように呟いて、そのまま俺との距離を離した彼女にもどかしくなる。俺がもしもなまえさんを好きだと言ったとしても、彼女が後ろめたい気持ちになる関係なら俺は望まない。こんな年の差、なければいいのに。そう思い下唇を噛んでいると。

「ねえ要くん」
「はい?」
「早く大人になってね」

そう言って、艶のある笑みを浮かべ去っていく彼女の後ろ姿を、今すぐ追いかけてしまいたいのだが。
例えば今年の春、俺が制服を脱いだとき、そのときでも遅くはないだろう。寧ろそのときまで、追いかけるべきではないような気もした。
なにも言えずに彼女のきらびやかな背中を見つめていると、足元で思い出したようにリードを引っ張るそいつ。俺が今向かうべきは、彼女の元じゃない。大人になった彼女に好きだと言える男になる日まで、俺は俺の向かうべきところに歩くのだと思い出させた愛犬を一撫でして前を見据えた。こんなにも待ち遠しい春はあとにも先にもないだろう。

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