山口忠という人物のことをよく知らない人は、きっと彼を世渡り上手のお人好し、としか言わないのだろう。確かにそれは合っている、彼は誰にでも優しくて、たまに月島くんと人をからかうみたいな、そんな普通の男の子。
だけど見てしまったのだ。夜、すごく年上の男性と二人、バレーの練習をしているのを。私はその時、コンビニで買った新商品のプリンとかあと少しで放送時間の毎週見てるドラマとか宿題とかそういう何もかもが頭の中からスポーン、と抜けるほどの衝撃が走った。山口忠はただ優しいだけの男の子ではないのだと、その時初めて知ったのだ。

だけど次の日学校に行くと昨夜のことが嘘だったみたいに、のほほんという空気を纏って生活していた。あの笑顔の裏に情熱や牙を隠しているのを知っているのは私だけかもしれない、当事者である山口ですら知らない隠し事を秘めているのは楽しくて、放課後、夜に彼をこっそり見に行くのが日課になっていた。その行動の意味を裏付ける感情は沸々と私の熱を上げていき、気付いたときには手遅れなほど好きだった。

そして今日、掃除当番だった友人が委員会のため代わってやったのは、他でもなく山口も掃除当番だったから。粋な計らいかもしれないし偶然かもしれないけど、私はこれほどまでに掃除当番を喜んで引き受けたことはあっただろうか。後ろに退かした机を運び終わって、俺部活だからついでに職員室寄ってくよーなんて帰宅部の男子に言う彼は、やはりお人好し以外の何者でもない。そんなの部活ない奴が掃除終わったと報告に行けばいいだけなのに。
「じゃあ私も行く!」と言った私に、山口は案の定目を丸くした。

「え?みょうじさんも行くの?」
「ダメ?」
「いや、いいけど……」

口ごもる山口を早く行かなきゃ部活遅れるよと促すと、慌てたようにエナメルバックを背負う。

並んで歩く廊下は、いつもの廊下じゃないくらい違う世界に見える。熱に浮かされたみたいに何も言えない。山口も特に何か言うでもなく、何となく気まずい空気が流れた。

「夜山口と一緒にバレーしてる人、何歳なの?」

と、まずは聞いてみたかったことを聞いてみる。
突然の質問に驚いたのか、肩をびくりと揺らした山口がちょっとだけおもしろい。

「えっと、26歳、だったかな」

思い出すように斜め上を見て言う山口を見上げる。細身なこともさることながら、いつも月島くんといるからそうは見えないけど、山口は結構背が高い。

「何で知ってるの?」
「だっていつも見てるもん」
「え!?そうなの?」
「うん。私の家あの辺なの」

そうなんだー、と納得したように返す山口はやはり普通の男の子で、こうして話してみてもバレーをしているときの真剣な顔は想像がつかない。このあどけなさの裏に隠した牙も、私は知っているんだからね。そう言いたくなるけど、知らないふりを徹してみる。

「コーチのチームメイトで、教えてもらってるんだ」
「部活のあとに?」
「うん」
「そっかーすごいね」

と言うと「でも俺、レギュラーじゃないからもっとがんばんないと」とはにかんだ山口。人ががんばることに、限界というものがあるのだろうか。ただ何となく生きてきた私がしてきた努力なんて、この人にとっては努力じゃないんだろうな。そう思ってまたきゅっと胸が締め付けられる。もっとがんばる、って、彼はきっとひたすらに、自分の限界など顧みることなくがんばれる人なのだろう。


担任への報告が終わって、私は家路へ、山口は部活へと向かう。ちょっと名残惜しいな、もっと話したいな、だけど彼が隠した情熱の邪魔はしてはいけないから、素直に別れを告げる。それでもやはり何か言いたくて、何かしたくて、ひょろりと細い背中を呼び止めると驚いたように振り向かれる。

「今日も部活終わったら、いつものとこいる?」

頷いた彼を確認して、
「今度から堂々と見に行ってもいい?」
と訊ねると嬉しそうに笑った。それだけのことがとても嬉しくて、じんわりと温かい気持ちで満たされていく。

「部活がんばって」

そう言ってポケットに入っていた飴を投げて渡すと、ちゃんと受け取ってくれた。
「ありがとう」
と言って手を振り去っていく彼の背中は、日だまりの中で特別な異彩を放っていた。

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