※高校卒業後の治が太ります



 宮治には忘れられない人がいる。高校を卒業し、専門学生時代から起業する頃まで付き合っていた元カノである。

 出会いはいわゆる合コン的な集まりで、当時治は彼女がほしいわけではなかったが「タダ飯食わしたるから来てくれ」と言われると人数合わせの合コンに二つ返事で着いていった。男子としても人当たりがよく温厚でおもしろい治は重宝していたのだ。人当たりがよく温厚でおもしろく、高校時代は宮ツインズとして全国に名を馳せていた治が、そんな集まりにしょっちゅう顔を出してもいつまで経っても彼女ができなかったのは、単にその頃の治がぽっちゃりとしていたという理由からであろう。元より食べるのが好きで高校時代は運動部、バレーをしていた頃と同じ量を運動せずに食べ続けていれば太ってしまうのは当然の帰結である。双子の侑から「ブタ」「痩せろ」「熊か」と罵られても治にはお構いなしだった。女性からは全くモテなくなったが、不特定多数の女から好意を向けられる居心地の悪さから解放されたのは治にとってはむしろ好都合だった。
 しかしそんなとき、治はなまえと出会った。

 いつもどおり知らん女がずらっと目の前に並んで、時折話に入ったりボケたり突っ込んでみたりもしつつテーブルの上の食事を延々と食べ続けていると、対角に座るきれいな女がじっと自分を見つめていることに治は気がついた。治は自分の目の前に置かれたからあげの皿を差しながら「何個食う?」と声を掛けた。あの人からあげ食いたいのに届かんから俺のこと見てるんやろな、と治は思った。しかしなまえは首を横に振り「私の分食べてええよ」と優しく微笑むではないか。治は「ええやつすぎるやろ」と思った。単純である。それが第一印象。
 そして宴もたけなわとなり、二次会はめんどいから帰ろ、と思っていた治に声を掛けてきたのはなまえの方だった。

「治くん、やったっけ? 二次会行くん?」
「行かん」
「そうなんや、私も」

 改めて近くで見るとなかなかにきれいな女である。すらりとしていて色が白く、穏やかな話し方は同世代の女子より落ち着いていて上品である。今まで治の周りにはいなかったタイプで、いかにも芦屋のお嬢様という雰囲気の女が治の耳元まで背伸びして、こう囁いた。

「まだ時間ある? おいしいとこあるんやけどシメラー行かん?」

 そんな魅力的すぎる提案を持ちかけられた治はたまらず、ふたりでこっそり抜け出したのであった。



 なまえに連れ込まれたラーメン屋は、意外にも床がべたついているタイプのこじんまりとした庶民的な店で価格もリーズナブル、これまた治のツボを見事にくすぐった。ラーメンと半チャーハンに餃子、というシメというには重すぎるメニューだったがペロリと平らげてみせた治を、なまえはうっとりしながらちびちびとビールを呷る。

「ほんまによお食べるなあ」

 感嘆とした声に籠る熱は、治が久しく向けられていなかった女性からの好意そのもので「なんかイケるんちゃうか」とスープを完飲しながら治は思った。別に彼女なんかいらん、と思ってはいたがなまえはきれいやし一緒におっても面倒そうやないし、からあげくれるしええラーメン屋知っとるし何よりも太っている治に優しくしてくれるなどもはや女神である。店を出てなまえを送っていく帰り道、ダメ元で連絡先を聞いたところすんなり交換してくれただけではなく、なまえからデートに誘ってくれたのが嬉しくて、何度目かのデートで治から告白し交際にまで漕ぎ着けた。

「見たかツム、人は見た目が全てやないんや!」

 どっぷりとした腹に手を当てながらふんぞり返り、侑に報告すると信じられないものを見る目をされスカッとする思いだった。今まで人を散々ブタだ熊だと罵ってくれたが俺にはきれいで優しい彼女がいる。その事実は覆しようがなく、また侑にとっては信じられないようだった。

「お前! こんな美人どうやって捕まえたん!? 脅して付き合ったんちゃうやろな!?」
「そんなんせえへんわ、お前と一緒にすんな」

 美女と野獣やないか! などとなんとか罵倒したくて仕方がない様子の侑に「アホのツムにはわからんやろうけど心のきれいな女には俺のよさがわかんねん」とドヤったりなんかして、治となまえの交際は順調に続いた。隣で控えめに微笑み、太った治に痩せろとも言わず、なにを作らせてもうまい手料理を好きなだけ食べさせてくれるなまえは治にとって癒しでしかなかった。専門学校を卒業し、開業に奔走し疲れている治の体を気遣い支えてくれたなまえを俺が絶対に幸せにしたると将来のことまで考えていた。多忙な毎日だったが治なりになまえを大切にしていたつもりだった。
 そしておにぎり宮を開店させる頃には治の体型はすっかり高校時代まで戻り、美女と野獣カップルだったのがただの美男美女カップルになった頃、治は突然フラれた。理由を聞いても「治、変わったなって」これ以上は言えん、とまで言われ、到底納得はできなかったがなまえの気持ちは変えられず、ふたりの恋は幕を閉じた。

「変わったってなんやねん! こちとら人間やぞ、なんかしら変わって当たり前や、何が悪いねん! 俺の伸び代ナメんなや!」

 侑に報告がてら管を巻くと、侑は心底おもしろいと言った様子でげらげら笑った。病めるときも健やかなるときも共に生きる覚悟をしていたというのに、まさか健やかなるときにフラれるとは治も侑も思ってもみない。

「一番の激変はお前の体型やのにな、おもろ」
「何がおもろいねんしばいたろか」
「なまえちゃんデブ専やったりしてな」
「……それや!」

 そんなわけないやろ、と返されるとばかり思っていた侑は目を丸くした。むしろ自分が「んなわけあるかい!」と突っ込んでやろうとしたが治の様子を見るにどうやら本気でその可能性を信じ始めている。あの美しく聡明ななまえがデブ専など侑からしたらにわかに信じがたい。デブ専ブス専とは、自分の見た目に自信がないやつがデブやブスとしか付き合えないから仕方なく名乗る不名誉なものだと思っていた。同じように思っていた治もまた、その考えには今の今まで至らなかったのである。

「……前に動物園行ったとき、あいつシロクマとかパンダばっか見たがっとった。お土産まで買うてた」
「……シロクマもパンダもかわいいからしゃあないやろ、お前と同列にすんなや」
「あいつ、友達とディズニー行ったときプーさんばっか買ってきよってん」
「プーさん好きな女なんて死ぬほどおるわ」
「昔っから好きなんやって。俺とプーさんよお似てるって言うてたわ」
「お前それディスられとるやん」

 それだけではない。前に侑となまえを会わせたとき、同じ顔でしゅっとした見た目の侑を見てなまえの気持ちが揺らいでしまったのではないかと心配した治になまえは「私は治が一番やで」と愛おしそうに言ったのだ。もっちりとした治の二の腕を握り込みながら。
 またあるときは、高校時代の写真をなまえに見せたところ露骨に怪訝な顔をされたことがある。クリームパンみたいにふっくらとした治の手の弾力を楽しみながら「私は今の治の方が好きやな」と言われたのだ。てっきり銀髪のチャラい治が嫌だったのだと思い「俺はもうこの頃には戻らん! 真面目に誠実に生きるんや!」と心に誓ったが、もしや嫌だったのは治の髪ではなく体型だったのではないか。

 考えれば考えるほどなまえデブ専説に信憑性が増してくる。あんなに食わせたがったのも、痩せなくてもいいと言ってくれたのも、開業で多忙な毎日を送る治に「体壊してへん? 無理してへん? ちゃんと食べてる?」と心配してくれたのも、全部俺を肥えさせるためやったんか。それに気づくとゾッとした。

「……アホか! んなわけないっちゅうねん! デブのお前と今のお前やったら今の方がええに決まっとるやろ忘れろあんな女。女なんか星の数ほどおんねん」
「……ツム知らんのか、星はぎょうさんあっても夜空に月はひとつしかないんや」

 珍しくガチへこみしている治に、さすがの侑も掛ける言葉が見当たらない。侑もまた、見た目で寄ってくるしょうもない女のいやらしさには覚えがあるので、太っていた治を丸ごと包み込むように愛していたなまえの懐の深さには感服していたのである。そのなまえを失った治の喪失感たるや想像するに余りある。まあサムのことやからどうせそのうち忘れてけろっとしてるやろ、と思ったが、治はなまえを忘れられないまま時は過ぎ季節が一巡した頃、おにぎり宮の近くに新しく定食屋ができた。ご近所ということで挨拶がてら食事をしにきた朗らかな店主の顔を立ててやろうと、おにぎり宮の店休日に定食屋を訪ねると開店間もないこともあり店は混雑していた。ひとつだけ空いていたカウンター席に着くと、隣に座っていたのがなんとなまえであった。

「……久しぶりやな」
「……うん」
「元気にしとるか?」
「うん。治は?」
「まあぼちぼち」

 本当は、お前にフラれてメンタルボロカスや、とでも言ってやりたかったがみっともないのでやめておく。

「うちには来おへんのにこっちの店には来るんやな」
「……治の店には行けんやろ、ふつう」
「なんでや、別れたからか?」
「わかってるんやったら言わんといてよ、なんでそんな意地悪言うん?」
「意地悪いのはお前やろ。あんな理由でフラれて俺が納得してるとでも思てんのか」
「それは……ごめん」

 どこかよそよそしい態度のなまえに対し苛立ちにも似た感情が募る。どれだけ時間をかけても、どれだけ多忙な毎日を送っても忘れられなかった人が隣にいるのに、ふたりの関係はもう変わってしまったのだという事実をまざまざと突き付けられてもどかしかった。とはいえ嫌い合って別れたわけではないので、ポツリポツリと話をするとそれなりに会話は続いてしまう。なんで別れたのかやっぱり理解できん、というのが治の本音であった。聞くとなまえは治と別れてから彼氏はいないという。

「……なあ、俺らやり直せへん?」

 混雑した定食屋で言うことちゃうやろ、と思ったがつい口をついて出た。今を逃したら二度とチャンスはないような気がした。幸い、ざわめく店内で治の告白が注目を浴びることはなかった。

「俺が変わったって言うとったけど何があかんかったのかわからんねん。確かにあの頃忙しくしとったし、なまえに心配かけとったのもわかってんねやけど寂しいなら寂しいって言うてくれてたらお前のためやったらなんぼでも時間作れたし」
「ちゃうねん、ごめん、治はなんにも悪くないねん」
「せやったら余計意味わからんわ。なにがあかんのかどうしてほしいのかも言わんで急にフラれた俺の気持ちにもなれや」
「……せやな、それはほんまに私が悪い」
「改めて理由聞いてもええか」

 治の問いになまえは言い淀んでいたが、決して急かすことも声を荒らげることもない様子の治に対し罪悪感が募ったのか、ゆっくりと話し始めた。

「……聞いたら嫌な気持ちになるかもしれんけど、それでも聞きたい?」
「そんなん聞いてみんとわからんわ」
「……せやな。あのな、私、」

 太ってる人が好きやねん。

 恥ずかしそうに両手で顔を覆いながら消え入りそうな声で言われ、治は思わず噴き出しそうになった。まさかとは思った予想が見事に当たってしまい、絶対ツムに教えたろと心に誓った。

「俺の体目当てやったってことか。俺やなくてもそこら辺のデブ誰でもええってことやんな?」
「ちゃうよ! 人聞き悪いこと言わんといて」
「何がちゃうねん。痩せた途端フラれたってことはそういうことやろ」
「あのときは……ほんまにごめん、プーさんみたいにかわいかった治が変わってもうて私もショックで……」
「誰がプーさんや」
「でも誰でもよかったわけやないのはほんまやで、治優しいしおもしろいしなんでもよお食べてくれるし、ちゃんと性格も好きやった」

 今さらそんなことを言われても治とて困る。なまえが嫌だったのは治が痩せたことだけで、じゃあ太ったらもう一度付き合えるのかと言われても、治としても別にあの頃は好きで太っていたわけではない。侑にブタだ熊だと言われるのはどうでもいいが太っていると体が重くて仕方がないし、ちょっとした動作も億劫になっていたあの頃に比べたら今の方が絶対に体の調子がいい。何よりあまり広いとは言えないおにぎり宮のカウンター内で、ただでさえ高身長の治は今より太ったら支障が出るし、別に無理をして痩せたわけではないのに惚れた女のために太るというのもおかしな話だ。そこまでして他人のために自分を変える必要はないと治は思う。
 とはいえなまえのことを好きで忘れられなかったのもまた事実。痩せた治に用はないとばかりに切り捨てられ、はいそうですかと納得するのも癪な話だ。本当に治の体型だけが好きだったわけではないのなら証明してみせろとすら思う。なぜなら治は体型以外、なまえが好きだと言ってくれたところは何も変わってなどいないのだから。しかし治とてそれを証明する必要がある。自分は何も変わってなどいないと。

「……大将すんません、追加の注文いいすか」

 治は店の壁に貼ってあった“大盛チャレンジ! 時間内に食べきったらお代無料! 成功者ゼロ”と元気な字体で書かれたメニューを指差した。途端にどよめく店内は、バレーの試合のときに感じるあの緊迫感にも似ていた。

「治……!? なに言うてんの? しかも追加でて」
「お前、優しくておもろくてよお食べる俺が好きなんやろ? 優しくておもろいのは証明できんけど、よお食べる俺なら証明したるわ」
「やめて、お願い無理せんといて」
「してへんわ。見とけ、お前のために食ったるわ」

 そうしているうちにふたりが頼んだ料理が運ばれてきた。手を合わせ、困惑するなまえをよそに治は元々大盛で頼んでいた料理を平らげていく。少食ななまえが残した分も代わりに食べてやった。そしてついに推定五人前くらいのデカ盛りメニューと相見える。大人になり、さすがに高校生の頃のようには食えなくなったが治とて元運動部の大食漢である。目の前にある飯を残すなど全ての食材に失礼であり、命に対する冒涜であるとすら思っている。注文したのは自分である。責任を持って全部食う。突然始まった治の大盛チャレンジを、固唾を飲んで見守る群衆の中、治はひとり黙々と平らげていく。もう胃に一ミリたりとも隙間はないくらい、腹がはち切れそうで苦しい。いっそ吐きだしてしまいそうだったが、なんとか制限時間内に食べきり治は拳を天高く掲げた。治が見たのは夢か現か、拍手喝采の嵐を聞きながら治の意識は遠退いていった。



 目を覚ました治が最初に見たのは、心配そうに自分を見下ろすなまえの顔だった。すぐになまえの太ももに乗せていた頭を起こし状況を確認する。血糖値の急激な上昇により気絶した治は、おにぎり宮に運び込まれたようだった。

「治、大丈夫?」
「……あれ、飯は?」
「大丈夫、食べきってたで」
「なまえ仕事あるやろ」
「倒れてる人放っておけんよ」

 しょーもな。治は自己嫌悪に陥った。いくらデカ盛りチャレンジ成功とはいえ、ぶっ倒れてなまえに世話をかけているようじゃあざまあない。高校時代の自分ならあれくらいの飯余裕で食べきってその後も平然とバレーに明け暮れて、ちょっとしたら小腹が空いてきていたであろう。あの頃の治の胃袋はブラックホールにでも繋がっていたに違いない。情けないなと思いながら、もう一度なまえの太ももに頭を落とす。まだ腹が膨れて苦しかったし目の前がぼんやりと霞んでいた。付き合っていた頃、こうしてなまえに膝枕してもらっていたのを思い出す。その頃と変わらないようになまえの指先が治の髪を優しく撫でた。

「……付き合ってた頃思い出すな」
「うん」
「幸せやった」
「せやな」
「なまえと別れてからいい感じになった子もおるけど、やっぱりお前やないとあかんねん。お前がええねん」
「……うん」
「でもなまえはデブの俺がええんやろ?」
「……」

 何も言わないなまえに、今度こそ治は静かに腹を決めた。もうこの人のことは忘れよう。こんなに人を好きになることは今後ないかもしれんけど、もうあの頃には戻れんのやからしゃあないわ。まだ頭がぼうっとするが体を起こしなまえと向き直る。

「面倒かけたな。俺はもうちょい休んでくけどなまえは仕事戻ってええで」
「……治」
「ん?」
「治って、やっぱりかっこいいな」
「今さらやな、惚れ直したんか?」
「うん」
「うん、て。そこは突き放すところやろ」
「……そんなんできるわけないやん」

 付き合っていた頃よりもほっそりとした治の背中になまえは両手を回した。無駄な贅肉はないが、治の肩や背中には今やがっしりとした筋肉がある。二の腕はむっちりとしていないし手だってクリームパンではない。お腹も三段腹ではなくシックスパックで、大福のようにもっちりとふくよかだった顔は今やしゅっとした男前になってしまった。なまえが好きだった頃の熊みたいなわがままボディ治はもうどこにもいない。戻るつもりもない。それでもなまえは治にしがみつき、治もなまえの頭を自分の方へと引き寄せた。

「ええんか? もうプーさんの物真似してやれへんぞ」
「物真似くらいはできるやろ」
「アホか。俺みたいな男前がやってもおもろないわ」
「もう無理せんといてね、でもいっぱい食べる治は見てたい」
「そんなんいつでも見せたるっちゅうねん。毎日一緒に飯食おか」
「治の好きなものいっぱい作って待ってる」
「今日カレー食いたい」
「……また食べるん!?」
「夜になったら腹減るやろ。俺今日休みやし飯作ったるわ」
「治のごはん楽しみや」

 なまえと付き合っていた頃から変わったこと。それは治が今や食べさせてもらう側から、食べてもらう側になったこと。それをなまえがどう受け取るかはわからないが、治が自信を持って作るうまいものをなまえにも食べてもらいたい。惚れた女とおいしいものを食べて笑い合う日常が戻ってきたことを噛み締めながら「カレーもええけどあの定食屋のからあげうまかったな、やっぱ今日からあげにしよか」と治は思うのであった。

2024.08.04

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