初めて入るセブンブリッジ学院は、文化祭ということを差し引いても男子校であることを忘れるくらいきれいで清潔な校舎だった。例えばこの物理準備室、実験で使うものや教師の私物などが散乱していなくて、育ちすぎた綿ごみどころかうっすらとした蜘蛛の巣ひとつないきれいな空間だ。ここに住めと言われたら狭さゆえにちょっと遠慮したいけれど、私の通う高校の準備室と交換してあげる、と言われたらちょっぴり嬉しいと思う。私のクラスは物理室と、その手前にあるトイレ掃除の担当だからこの物理室なら掃除も楽なんだろうな、とぼんやり考えた。けれど。

「ねえ、私セブンブリッジの文化祭に遊びに来たんだけど?」

友人とセブンブリッジの文化祭に来たはずが、なぜか私はひとりだけ物理準備室に連行された。さっきまでお化け屋敷の列に並んでいたはずなのに、今はなんの喧騒も飾り気もない、ただの準備室にいる。私をここに連れてきた人物をじとりと睨み付けるも、携帯をいじりながら飴を舐めている。

「協力依頼」
「は!?」
「怠慢発見 手伝強制。面倒」
「はあ!?そんなの私関係ないし。一人でサボってよ」
「女子同伴 労働回避」
「なんで?」
「男子校、皆女子飢饉」
「で?」
「彼女持優遇、人員除外」

身勝手な都合ばかりをいけしゃあしゃあと言ってのける霧咲くんは、涼しい顔をしながら私へ飴をひとつ差し出した。賄賂というやつか。私がいま食べたいのは焼きそばやたこ焼き、クレープやらの「THE 文化祭」的なものであってそこらのコンビニで買えるチュッパチャプスじゃない。それでもお腹がぐーぐー鳴っている私は、仕方なくそれを霧咲くんから引ったくった。ビニールを剥いで口に突っ込む。プリン味のキャンディは余計に空腹を助長させた。

「女子と一緒だと手伝わなくていいならなんか買いに行こうよ、ていうか私お化け屋敷行きたかった」
「混雑苦手」
「わがままか」

ちなみに言うけれど私は霧咲くんの彼女とかでは決してない。中学時代の同級生で、ほんのちょっとだけ霧咲くんとは仲がよかった。霧咲くんはこの通り、大変寡黙な人で人付き合いも積極的なタイプではなかったから野球部の友達はいても女子と会話をしているところなんてほとんど見たことがない。だから私は霧咲くんと意思疏通できる希少な女子であっただけ。だからこそ霧咲くんは私を見つけたとき、彼女のふりをしてもらおうとここぞとばかりに頼ったのだと思うけれど。

「霧咲くんも変わんないね」

私の言葉に霧咲くんは端整な顔を少しだけ歪めて、不思議そうに私を見た。

霧咲くんと私の仲がよかったのは、私も霧咲くんもあまり行事に積極的ではなかったことが一番の理由だと思う。体育祭や文化祭はいかに体力を消耗させずにやり過ごすかを考えていたし、なんなら気乗りのしない体育の時間は頻繁にサボりをキメていた。そういうとき、大体霧咲くんが一緒にいた。集団こそが正義だと思い込んでいる連中が大半だった中学時代、団体の輪を乱すような私は女子の中では浮いていたから霧咲くんだけが唯一学校で会話をする同級生だった。だからといって頻繁に一緒にいたり学校の外で会ったりするような仲ではなくて、連絡先も知らないから中学を卒業してからは自然と疎遠になってしまったけれど。高校生になってからは私と同じようなやる気のない女子と友達になってつるむようになったのも理由かもしれない。霧咲くんという存在すら忘れかけていた、私はとんだ薄情な女だった。

その霧咲くんを思い出したのは、今年の夏、高校野球で埼玉選抜が優勝したことだった。新設して間もないセブンブリッジの生徒は派手な見た目のイケメンが多い、と私たち埼玉の女子高生の間で話題になった。そしてそのとき、そういえば霧咲くんもセブンブリッジに行くとか言ってたことを思い出して、案の定、霧咲くんも埼玉選抜のメンバーだった。

イケメンを見るついでに私の知人である霧咲くんからセブンブリッジの男の子を紹介してもらおう、と言い出した友人によって、私はセブンブリッジの文化祭へと駆り出された。霧咲くんにそんなことを頼むのは申し訳がないな、とあまり気乗りはしなかったけれど、イケメンの作る焼きそばを奢るということで友人に買収された私も大概なんだろう。そんな自分になってしまったことを霧咲くんに知られるのは本当は少しだけ嫌だけれど、結果焼きそばよりもその辺で買えるチュッパチャプスで買収されているあたりやっぱり私は今でも霧咲くんの悪友なんだと実感する。結局のところ、変わっていないのは霧咲くんだけじゃなくて私もなんだろう。

「なんかこういうの久しぶり」
「真面目化?」
「そんなわけないでしょ、霧咲くんとサボるのがってこと」

中学時代の文化祭も、合唱コンクールの練習も、球技大会や体育祭も、いつもこうして二人でサボっていたのが懐かしく思える。キラキラしていた青春とはほど遠いけれど、女子の輪に溶け込めなかった私にとっては霧咲くんがいた日々はなんだか楽しかった。

「二人でゴミ焼却炉のとこでサボってるの先生に見つかって、霧咲くんが『焼却炉見張中』って言ったときめっちゃくちゃ怒られたよね」
「なまえ爆笑 余計叱責」
「だって『焼却炉の番人してる』とか絶対信じてもらえないのに真顔で言うんだもん。まさかあんな言い訳するとは思わないよね」
「同罪」

昔話に花を咲かせて二人でくすくす笑い合っていると私の携帯が震えた。画面に目を落とすと友人からのメールを受信している。内容は『どこにいるの?』だった。

「ごめん、そろそろ行かなきゃ。友達が心配してる」

久しぶりに会えた霧咲くんが、相も変わらず覇気のない霧咲くんでよかった。それだけが知れて、昔となにも変わらず笑い合えただけでよかった。折角来たのだから私もそろそろ文化祭を謳歌しなくてはいけない。イケメンに焼きそばを作ってもらうまで私は意地でも帰らないつもりでいる。物理準備室の扉に手をかけるも、反対の手首を掴んだのは霧咲くんだった。

「どうしたの?」

振り向いて訊ねるも、霧咲くんはなにも言わずに私を見下ろすばかりだった。

霧咲くんという人は、口数が少ないばかりでなくて、たまに口を開けば単語しか話さない上に表情も乏しいからいつもなにを考えているかわかりかねる。彼の表情から、なにを言いたいのか読み取ろうと必死に試みる。

「サボりたいんだよね?私のことクラスの人に彼女って嘘吐いてもいいよ、飴もらったし。その代わり私の友達もついてくるけどいい?」

そのついでに、霧咲くんに誰か男の子を紹介してもらえば友人たちもなにも言わないだろう。私が彼女のふりを買って出たら霧咲くんにもお願いしやすくなるし当初の予定は達成されるし、霧咲くんもサボれるし一石二鳥どころか三鳥くらいにはなっている。だけど霧咲くんは首を縦には振らなかった。

「でもさすがにずっとここにいるってわけには……」
「否」
「え?」

聞き返すや否や、霧咲くんの手が掴んでいた手首をゆっくり降下して、手のひらをぎゅっと握り直す。手袋越しの体温と、あまりにも優しい力加減に思わずこっちが怯んでしまいそう。困惑していると、霧咲くんが更に追撃してくる。

「再会歓喜」
「ありがとう……」
「恋人演技、嫌」
「そうだよね、こんな彼女嘘でも嫌だよねごめんね」
「否」
「もうさっきからなに!?」

はっきりしない霧咲くんに辟易していると、今度こそ殺し文句が降ってくる。

「交際本気、駄目?」

ポケットの中で携帯が震えている。前略ご友人様、私はもう少し戻れそうにはありません。紹介するのはセブンブリッジの男の子と、そしてたった今できたばかりの彼氏になりそうです。

2017.03.22

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