「えーす!なんで飲んでないの!?」

目の前で中ジョッキを乱暴にテーブルへ置いたなまえに中宮影州は溜め息を溢した。

「バカお前、飲みすぎだっつうの」
「いいの、今日はやけ酒だー!」

呂律は回っておらず、目も据わっている。何度も同じ話を繰り返し、影州の酔いはもうとっくに覚めてしまっていた。

「お前明日仕事だろ」
「そうだよ〜」
「大概にしろよ」
「だから今日は、」
「あーもうわかったって。やけ酒だろ」

“飲みに行こう”と誘われたのは17時過ぎ。仕事が終わった影州がその連絡を確認したのは20時を過ぎた頃、返信するや否や指定した居酒屋に来いと呼び出され、着いた影州が目にしたのは既に出来上がった状態のなまえであった。

酔っ払った状態の彼女から話を聞けば至極単純、数年付き合っていた男にフラれたという話である。結婚を視野に入れていた彼女からすると青天の霹靂、仕事もろくに手につかなかったという。

「いきなり他に好きな人ができたとか言われてさ、納得なんてするかっつーの!」

それ、もう10回は聞いた。そんな言葉が出掛かったが影州はそれをぬるくなった生ビールと共に喉まで流し込んだ。いくら気の置けない友人とはいえ仮にも女性、おまけに傷心中ともなれば無下に扱うわけにもいかない。このときばかりは女にめっぽう弱い自身を影州は恨んだ。だからと言ってむやみやたらと優しくされるのを彼女は嫌がる。彼女はそういう女だった。



二人の出会いは彼らがまだ成人して間もない頃まで遡る。女が好きで見てくれがよく、ノリもよい影州は「影州がいれば大体盛り上がる」という男達の共通認識によって合コンともなれば引っ張りだこであった。ほとんど数合わせのようなものであったが影州自身もその場のノリを大いに楽しんでおり、それはもう酒を片手に女相手にブイブイいわせていたのである。なまえとの出会いも、そんな合コンの一幕である。

当時まだ恋人とは出会ってもいなかったなまえは、男が好きというよりも酒が好きで、とにかく酒の飲める席であれば喜んでやって来るような少し風変わりな女であった。当然男に媚を売ることもせず、ただただその場のノリを楽しみ、浴びるように酒を飲むくせに決して潰れはしない、その場にいた男達に難攻不落の城とまで言わしめたほどの女だった。

「なまえちゃん飲みすぎじゃね?大丈夫?」
「へーきへーき。てかちゃん付けとか気持ち悪いからやめてくれる?」

これが二人の馴れ初めである。普通ならば可愛いげのない女、と一蹴してしまうのがオチだが、影州はそんななまえのノリを気に入った。女の子は大好きだが、今すぐにでも恋愛したいわけじゃない。好きだとか愛しているだとか、そういう言葉はとびきり甘くて嫌いじゃないがそれは一種の拘束であると影州は思う。
今は誰か特定の、未来を共に夢見るような相手よりも、後腐れなくバカ騒ぎしてはその場その場で夢を見る方がよっぽど楽しい。
そんな影州にとって彼女はうってつけの遊び相手となった。彼女もまた酒に付き合ってくれて話が面白い影州を気に入ったのだ。見た目こそはチャラいし自分以外の女の子には砂を吐きそうになるベタな台詞を平気で吐くが、なまえのことは決して女扱いしない影州はなまえにとって気持ちよく酒が飲める相手であった。

それからというもの、影州となまえは暇さえあればお互いを呼びつけて酒を酌み交わした。酔っている二人が話す内容は取るに足らないようなことばかり、酔いが覚めれば忘れてしまうようなどうでもよいことばかりであった。時が経ち、あの日の合コンで付き合った仲間内の恋人達が別れても、なまえと影州の関係だけは揺るがなかった。影州の気持ちを除いては。

「そういえば私、彼氏できたよ」

一頻り騒いで、終電に乗り込もうと駅を目指して歩くある日の帰り道、なんてことないように彼女は呟いた。まるで「こないだいいお店見つけたよ」とでも言うようなあまりにも軽いノリに影州は面食らったのを覚えている。

「……お前さあ、俺と飲みに行ってていいのかよ」
「なんで?関係なくない?」

アルコールが入り上機嫌な彼女は、しれっと言ってのける。こいつはぶっ飛んだ女だと思ってはいたが、ここまで軽はずみな女だとは思っていなかった影州は思わず言葉を失った。

「男と飲みに行った、って言っても影州は友達だもん」

燦然と輝く星空の下、彼女は至って純粋に、そして酒に酔っていることを感じさせないほどハッキリとした口ぶりで溢した。その言葉を聞いたとき、なぜか影州の胸はちくりと痛んだ。しめで食べたラーメンに胡椒をかけすぎて胸焼けしただろうかと、自らの心に白を切ってみる。

「それに今の彼氏より影州の方が付き合い長いんだよ。私、友達は大事にするタイプだから安心して」

そんな言葉も、翌朝になれば彼女は忘れてしまうのだろうか。得も言われぬ焦燥が突如として影州を襲った。

「……お前ほんとに彼氏のこと好きなのかよ?」
「好きだよ」

自身に向けられたわけではないたったそれだけの言葉が、やけにずしりと胸に沈んでいく。それは街灯が照らす彼女の表情、上気した頬は決して酔っ払っているだけのものではないと気がついてしまったからである。

改札を抜けていく彼女の背中を見送る影州は、彼女ともう二度と会えなくなるのではないかと不安に駆られ、途端に先程までそばにいた彼女を名残惜しく思ってしまった。そしてそのときふと気づく。自分にとって彼女はただの悪友だったのではないのだと。好きだとか愛しているだとか、そういう言葉はとびきり甘いはずなのに今だけはひどく後味が悪く、苦い。何故ならそんな言葉とは無縁に生きていくのだとばかり思っていた女の口から出たからで、そしてそれが自身に向けられた言葉ではないからで、更に言えば自身に向けてほしかったからだと気がついたとき、影州の酔いは急激に覚めていった。



「ったく、歩けなくなるくらい飲むんじゃねーよバカじゃねーの」

泥酔状態のなまえの細い肩を抱きながら影州は毒づいた。自力で歩く素振りすら見せずに影州に身を委ね、彼女は今も夜をふらふらとさまよっている。

「ふふっ、ふふふ」
「なんだよ気持ちわりーな」
「えーすありがとー。大好きー」

しまりのない顔をして、へらへら笑いながら彼女は言う。本日何度目かもわからない溜め息を影州は溢した。人の気も知らないでなにが大好きだ、本当にこの女どこまでもふざけている。だが悔しいことにそんな女に、影州は惚れている。
好きだとか愛しているだとか、彼女の口から他の誰でもない自分のために言って欲しいと彼は願った。そしてそれは今まさに叶えられたが、だからといってこんな雑に言われたとて、嬉しくもなんともない。それどころか余計に虚しくなるばかりである。
彼女の口から聞く「大好き」は、もっと甘美な響きを伴うのだと影州は思っていた。事実、あの男にはもっと真摯に伝えていたのだろう。どれだけ飲ませても潰れない酒豪が酒に飲まれてしまうくらい、あの男を失った心の穴は大きいに違いない。それくらい、あの男を愛していたに違いない。
面白くないことこの上ない。影州は舌打ちを一つ溢した。一方彼の腕の中では、なまえが機嫌よさげに鼻唄を歌っている。

明日になれば当たり前のように目が覚めて、当たり前の日常を彼女は取り戻すのだろうか。それとも、酔いが覚めれば失ったものの大きさが余計に重みを増して彼女を苦しめるのだろうか。酔っ払った陽気な彼女しか知らない影州は、素面な状態のなまえが普段なにを考えどんな表情をしているのかさえわからない。だからこそ今は、今だけでも失恋の傷を忘れられるなら彼女にとって影州と一緒にいる理由になる。どんな形であれ彼女のそばにいられる理由になる。

「気は済んだかよ酔っ払い女」
「んふふ、ありがとごめーん」

泣き言の一つでも吐いてくれたなら慰めようもあるというのに、こんなときでさえ彼女は強がる。一人で歩けず影州を頼るくせに、影州が知りたい本心には触れさせてはくれない。
出会った当初はそれでよいと思っていた。なんのしがらみもなくただお互いを一人の友人として見ていたとき、そこに深い感情など伴ってはいなかったし必要だと思ってすらいなかった。だから影州となまえはここまでやって来れたのだと思う。恋愛にはいつか終わりが来る。それはとても明確に、そして大きな影響を与えてやって来る。だけど友情に終わりはない。疎遠になることはあったとしても、いつかなにかの拍子に会ったとき何事もなかったように笑っていられる。男女の友情は成立しないとよく言うが、なまえとならなんの心配もなく成立すると思っていた。それがこのザマだ。影州の方が今、その友情を壊したがっている。

「……お前ほんとにあいつのこと好きだったんだな」

きっとこいつは朝になれば全てを忘れてしまうのだろう。酒が入ればCDを貸せと言ったことすらも忘れてしまう女だ。ならば少しくらい、みっともない本音をぶちまけてしまってもいいだろう。影州は深く息を吐いた。

「どこが好きだったんだよ」
「……よくわかんないよ。でもほんとに優しい人だった」
「俺よりも?」
「なにそれ、今そんな冗談笑えないから」
「冗談じゃねえよ」

至極真面目な顔をして言う影州を不思議そうになまえは見上げた。影州がこんな表情をするのをなまえはこの日初めて見た。

「呼び出されれば甲斐甲斐しく来て付き合って惚れた女から男の愚痴まで聞かされて、おまけに家まで送ってやる俺のどこが優しくねえんだよ」

少なくともなまえを傷つけたあの男よりは優しいのではないかと影州は自負している。優しさを押し付けられることを苦手とする彼女が気後れしないよう、そして見返りも求めず下心もなく世話を焼く自分の方がよっぽど優しいに決まっている。そして好きな酒の銘柄や食の好み、行きたがる店の好みを把握している自分の方があいつよりもなまえのことを知っているはずだと。

「もう俺にしちゃえば?」
「なに言って、」
「言っとくけど本気だからな」

もう友情では済ませられない。失恋した弱味に突け込んだ上、相手は酔っ払い、影州とて良心が痛まないわけではない。それでももうこんな関係は終わりにしてしまいたい。例え酔いが覚めたなまえが今の影州の言葉を忘れたとしても、それでもいいから影州は言わずにいられなかった。

「お前に彼氏できたとき、なんか知らねえけどすげえへこんだ」
「……」
「お前が彼氏の話する度に早く別れちまえって思ってたけど、実際お前が傷ついてんの見てなんか俺まで泣きそうになるし」
「えーす……」
「つーか俺の前でくらい強がんなよ、痛々しいんだよお前」
「ねえちょっと……」
「今までずっと隠してたけど俺はお前のこと友達とか思ってねえから」
「えーすごめんちょっと待って」
「うるせえいいから黙って聞け」
「ちがうのごめ……吐きそう」

影州に肩を抱かれていたはずのなまえは、口元を押さえその場に蹲った。街灯が照らした彼女の表情は青白く、目は虚ろだった。

「は!?バカお前!!ふざけんなよ」
「もうむり……きもちわるい」
「だから飲みすぎだっつったろ」

意を決した言葉を台無しにされ溜め息を吐きながらも、小さな背中を優しくさすってやる影州は知らない。蹲った彼女が我慢しているのは吐き気などではなくて、彼の真っ直ぐな優しさに心を打たれた喜びの涙と、明日からどう接したらよいのかわからない戸惑いであることを。酒に飲まれていたとばかり思っていた酒豪の酔いは意外にも早く覚めてしまうということも、酔いを覚ましたのは彼の真っ直ぐすぎる優しさであることも、二人の関係が今この瞬間少しずつ動き始めたことも影州だけが知らないまま夜は更けていくのであった。

2016.04.04

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