二月十四日バレンタインデー。この日みょうじなまえは武軍装戦高校の校門前にいた。

二月も半ばとなり寒さは幾分和らいだようにも思うが、彼女の制服のプリーツスカートから覗く脚に容赦なく冷たい風が突き刺さる。なんなら道行く生徒の無遠慮な視線も。居心地の悪さを感じつつ、彼女はここで一人、ある男を待っていた。

彼女とその待ち人の関係は途方もなく遠いものだった。縁もゆかりもないような、うっかりしているとすれ違い、見落としてしまいそうな関係である。現に彼女の待ち人は、みょうじなまえの存在など知らないだろう。重々承知の上、彼女は彼を待っている。

きっかけは一目惚れであった。野球どころかスポーツに興味を示さない彼女だったが、野球好きの父が「今年の埼玉は強い」と毎日のように甲子園中継にチャンネルを合わせていたことがことの始まりだ。今年は異例の「県選抜対抗」があり、その中でも埼玉選抜は注目を浴びていた。バラエティ見たいのにな、と退屈に思いながら父と並んで野球中継をぼんやり眺めていた彼女であったが、ある打席に視線が釘付けにされる。

肌の色が白く、柔らかな色合いの茶髪、頬から下を覆う黒いマスクとヘルメットでろくに顔も見えない男が打席に立つ。なんだか不気味な人だな、と彼女はそのとき思った。そしてその男がバットを振る。小気味のよい打撃音は聞こえなかったが、彼が打ち返したボールは外野まで飛んでいった。

夏の太陽の下、真っ青な空はそれだけで活気があるように見えてくる、しかしテレビの中の彼は、打撃と同じくらい静かに颯爽と一塁まで駆けていった。

一目惚れだった。テレビの中の神鷹樹に、彼女は恋をした。

興味のなかった野球中継だったが、その日から彼女にとって一番の楽しみになった。毎試合出るわけではない彼が活躍する度、胸がきゅうっと締め付けられた。そうして埼玉選抜の優勝を見届け、夏は終わり季節は巡る。彼を忘れることのできないまま秋は過ぎ、冬も終わりに近づいている。夏の太陽の下で鮮やかに白球を捉える彼が今も心の中に住み着いたまま。

高校三年生である彼は、今年の春卒業を迎える。武軍装戦高校といえば県内唯一の軍人養成学校である。いわば卒業後の彼がどこに配属になるかなど到底わかりかねるのだ。彼の所在がわかる今、今しかない。そのことに気づいた彼女はたまたま入店したコンビニでチョコレートを1つレジに持っていき、その足で武軍装戦高校へと駆け出していた。



そして、今現在。

想い人である神鷹を前に彼女は足を震わせている。女人禁制である武軍装戦高校前で彼を待ち続ける彼女は不審者として周囲の目に映った。何事かと問われた彼女が口に出した名を、守衛の者は不審に思いながらも神鷹を呼びつけた。心当たりのない神鷹もまた不審に思いながら寮から校門までやってきたのである。

「急にすみません。私、みょうじなまえといいます」

震える声で自己紹介をし、最後に礼を添えると神鷹も軽くお辞儀を返した。感情の読み取れない、彼のまっすぐな瞳が彼女を射抜く。憧れの人物を前にして、彼女の言葉は思うように喉元から出てはくれない。

「(用件、なに?)」

言葉の出ない神鷹が手話で問いかけるも、彼女はその意味を捉えかねていた。首を傾げる彼女に、神鷹は「なにか書くものはないか」と身ぶり手振りで伝える。鞄から自らの手帳を差し出すと、付属のボールペンで神鷹は文字を紡いでいった。

“声、出ない”

「あ、」

彼女が短く吐いた一言に彼は眉を下げる。手話が伝わればよかったのだが、生憎そうもいかないようだ。しかし神鷹はふと思い立つ。自分が口を聞けないことも知らない彼女の用件とは、一体全体なんなのだと。

“用ってほんとに俺?”

先程の挨拶から彼女と神鷹が初対面であることは間違いない。しかしなにかしらの関係があって訪ねてきたのならまだしも、全く関係のない人物だとしたら。わざわざここまで来てしまう用事とはなんなのかと神鷹は思慮を巡らせた。しかし彼の脳裏には、残念なことに“バレンタイン”という文字はこの時点で浮かんではいない。

「……はい、間違ってません」

辿々しくもしっかりとした語気で、相違はないようだと神鷹は確信する。ぐるぐると頭の中を駆け巡らせる神鷹の様子にいたたまれなくなったなまえは、真っ白なコンビニ袋から真っ赤な包みを取り出した。

「あの、今更なんですけど埼玉選抜優勝おめでとうございます、お疲れさまでした」

包み紙と同じくらい真っ赤に頬を染めた彼女には顔を上げることは困難だが、神鷹が面食らっていることは彼の静かな息遣いで理解した。一方神鷹といえば、祝いと労いの言葉と共にどうしてこの包みが出てくるのかこの期に及んでもわかりかねている。神鷹は色恋沙汰には無頓着であった。

「あの、よかったら受け取ってください」

初対面の女からこんなものを受け取っても神鷹が困るだけだとわかっていても、そうせざるを得ないほど彼が好きだった。困惑を浮かべる神鷹の瞳に、彼女の心を埋め尽くす不安は濃度を増す。

「二駅先のコンビニで買ってきたやつなので変なものとか入ってないと思います」

彼女の切羽詰まった様子に押され、“ありがとう”と彼女の手帳に綴ってから神鷹は控えめにその包みを受け取った。ほっと胸を撫で下ろし、彼女はようやく神鷹と向き合う。形のよい眉を寄せながら包みをまじまじと眺める神鷹に、彼女は控えめに訊ねてみた。

「……卒業したら、どこか遠くに行ったりするんですか」

しばらくは埼玉の部隊に籍を置くことになっているため、神鷹は彼女の問いかけに首を横に振った。神鷹の返答に、彼女は安堵感を覚える。

彼がまだ埼玉にいるというのなら、自衛隊の催し物などに赴けばまた会えるかもしれない。そう思った。

「野球は、辞めないですよね?」

震える声で問う彼女の言葉に神鷹は再度頷いた。またグラウンドで白球を追う彼が見れるかもしれない。それこそが彼に恋をした彼の姿なのだ。それだけで胸の奥がじんわりと熱を持つ。

「あの、迷惑じゃなかったらでいいんですけど」

試合、見に行ってもいいですか。

彼女の問いに、神鷹はしばらく間を置いたのちこくりと頷いた。彼女の気など知らない神鷹としては、来たいなら来ればいい、それくらいの気持ちであった。

「ありがとうございます!」

未だ頬を赤らめたまま喜びで破顔した彼女に、神鷹は相も変わらず首を傾げるばかりであった。


真っ赤な包みを手に寮へと戻る神鷹の姿に、武軍装戦高校生徒寮に衝撃が走ったことは言うまでもない。

2016.02.14

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