めっきり日暮れが早くなったこの頃、西の方で真っ赤な夕日が落ちていく。肌寒さを感じた神鷹は上着を体の前で掻き合わせ寮までの道のりを急ぐ。

春は芽吹きながらゆっくりとやって来て夏は濃くなる、秋は深まり冬は音もなくやって来てはそっと溶けていく。四季はそうして順繰り巡って、神鷹が武軍へ入学してとうに三年目である。春が芽吹く頃、彼は武軍を去り正式に入隊が決まっていた。未来は確実に動き始めていて、優秀な彼は引く手あまたであったが地元へ戻ることを選んだ。

寮へ戻ると寮母が彼を呼び止めた。度を過ぎて物静かな彼は、特別に話しかけられることなど今までなかったように思い、心底不思議そうな顔で振り向く。

「手紙が届いてるよ」

その言葉に、長い前髪の奥で眉間に皺が寄っていく。神鷹が武軍へ入学してこの方、彼は長らく手紙など受け取ったことがなかったためである。差し出されたそれは確かに神鷹宛であり、裏返して差出人を確認すると神鷹の目が僅かに見開かれた。動揺を悟られぬよう寮母に軽く会釈をして、逸る鼓動を抑えながら彼は足早に自室へと向かった。

『神鷹くんへ』

丸みを帯びた筆跡は確かに彼女のものだ。彼にしては珍しく乱雑に鞄を置き、着替えをすることもなく机に向かい封を開けその丸い文字を目で追っていく。

『お元気ですか、私は元気です』

やけによそよそしい文言から、彼女が手紙を書くに至るまでの葛藤が窺えるようだった。

無理もない、あのとき、俺は。

更に文字は続いていく。辿々しかった文章はやがて砕けていき、彼女の近況がおもしろおかしく綴られていた。地元の大学に進学できるよう日々勉強漬けであること、寒くなったが炬燵はまだ意地でも出したくないということ、その代わりコンビニでついおでんに目を奪われてしまうこと、そして。

『野球部の主将、お疲れ様でした。実は試合を見に行ってしまい、ごめんなさい。約束は守れませんでした』

この夏、彼女が神鷹の、神鷹達の試合を見に来ていたこと。どくり、大きく脈打った心臓に神鷹はマスクの下で唇を真一文字に噛み締めた。

『野球をしている神鷹くんはやっぱり誰よりもかっこいいなって思ってしまいました。約束破ったくせにこんなこと言って本当にごめんなさい。そして遅くなってしまったけど埼玉選抜優勝本当におめでとう』

この夏は神鷹にとって忙しないものであった。武軍装戦高校として一回戦敗退、そうして引退するはずが黒撰高校から練習試合を申し込まれた。それも引退する三年生を含め十二支高校と対戦したときのスタメンで、という相手校の依頼つき。
そこで大敗を喫するが野球に対する情熱を消せなかった彼は、自分達を負かしていった黒撰と十二支の対戦の行方を見届けてやろうと球場まで足を運んだ。そして最後は文字通り体を張った猿野の度胸によって十二支は接戦の末勝ち上がる。
頭で、理論で、十二分に練られた策略によって、時には力で捩じ伏せてきた。自分達のやり方が間違っていたのだと思いたくはなかったが事実、十二支は自分達とは違い一見滅茶苦茶な戦い方で観客を魅了していくのだ。それをグラウンドで、観客席で肌身をもって知った神鷹もまた彼らに興味が沸いていく。或いは彼らなら、と自分達の目標を内心彼らに託していた。
十二支がセブンブリッジに負け、そのセブンブリッジが華武に負けてしまったあとは野球ではなく自らの進路に目を向けようと思った矢先。例を見ない県対抗戦の開催が決定し神鷹は埼玉選抜として武軍から単身兵庫へと飛んだ。

高校生活のうちに選手として甲子園の土を踏めること、そしてその地で優勝することができる者は世の中でほんの一握りである。素人くさくて破天荒な男だと思った猿野や、どう攻略するか思慮を巡らせた者達と共に戦うことは彼にとってよい経験となった。晴れやかな気持ちで埼玉に戻った彼は、そのときから進路へと向き合わねばならなくなった。しかしそれは決して苦行ではなく、神鷹にとって一つの覚悟を再認識するものであった。

『あのときは言わせてくれなかったけど、やっぱりどうしても神鷹くんに話したいことがあって、待たなくていいって言われたけど私はこれからも勝手に待ってます。だから』

帰ってきたくなったら、いつでも帰ってきてほしい。

それはあのときと一言一句同じ言葉。その言葉こそが、彼女と神鷹を繋げた不確かな絆である。

それは神鷹がまだ声を発し顔をマスクで隠していなかった頃、地元を経つ三年前の春。あのとき彼女は確かに言おうとしたことがある。その言葉が何であるか神鷹は知っていて、だからこそ制して言わせなかった。わかっている、その一点張りだった。その言葉を聞くことが怖かった。きっとその言葉はこれからの自分を迷わせる。強くあるために決めた進路で、それはあってはならないことだった。迷いは人を弱くし、一時の迷いは敗北に繋がる。幼い神鷹はそれを拒絶することでしか進めなかったのだ。

同時に、ほんの少しの確信があった。
離れた時間や距離で潰える思いではないはずで、きっと自分は今この瞬間をいつか後悔するはずで、だからこそ前へ進むしかないことを痛感するはずだと。

実際、神鷹の高校生活は目まぐるしいものだった。慣れない実技、国家機密、銃火機の取り扱い、徹底的なまでの体力作りに時折行われる野外演習、それに加えて野球部の練習や通常の高校生と同じく基礎学力も身につけなければいけない。それこそ彼女のことを思い出す暇などないほどに。

あのとき、もし彼女の想いを聞いてしまっていたら。きっと自分も想いを吐露してしまったことであろう。それは彼女にも無理を強いることになる。神鷹はそれを危惧していたのである。

そして会えない時間や距離は、あのとき思った通りに彼を心身共に強くした。軍人としては小柄で細身ながらも、武軍では指折りの優秀な生徒であり野球部では主将で四番を努め上げた。提督に代わりしばしば采配を振るうほどで、彼の強さを知らない者など武軍にはいなかった。

しかし進路を前にして、神鷹はふと思った。どうしても会いたい人がいる。自分勝手に想いを汲むこともしてやれなかったが、もう待ってくれていないかもしれないが、それでもこれ以上待たせたくない人。
きっと入隊したこれからだって苦労を強いるだろう、自衛官の恋人に不安はつきものだ。それでも、今度は自分の方から言いたいことがある。

『神鷹くんのことちゃんと待ってられるように私も入試がんばります』

神鷹が覚えている限りでは確か、彼女はあまり勉強が得意ではなかったはずである。確かにな、と薄い苦笑いが込み上げるのを自覚して神鷹は言い訳するように咳払いを一つ溢す。

寒くなったので体に気をつけるようにと締め括られた手紙を読み終え、神鷹は官舎の向こうに暮れる夕日に目を向けた。数ヵ月前の自分は、こうして自室で夕日を眺めるなどあり得なかった。部活を引退して、もう数ヵ月で終える高校生活、そして地元へ戻れるという安堵感から神鷹にもようやく余裕が生まれたのだ。

もう、待ってくれていないかと思っていた。

離れた時間や距離は神鷹を強くした代わりに不確かな絆を疑わせた。しかし「待たなくてもいい」と言った自分を三年間待ってくれていたこと、「自分のことは忘れてほしい」と言った自分の試合をわざわざ見に来ていたこと、その上で改めて思ったこと。

待てなくなったら待たなくてもいい。だけど本当は待っていてほしい、これからも。

彼女は「もう待ちたくない」と駄々を捏ねるかもしれない。だけど今まで待ってくれていたのだ、女の機嫌は秋の天気のように変わるというが、三年間変わらなかった天気が唐突に変わったとしてそれがなんだというのか。会えなかった時間は必ず埋める。自分勝手かもしれないが、待っている人がいるという安心感で生まれる強さもあることに神鷹はこの夏気づいたのだ。
破天荒な男だったが、あいつは確かに今後を期待してしまう男だった。あいつはきっとそうして強くなったのだろう。
そして自分にとってそれは彼女だ。充分すぎるほどの期待を背に負った三年間があった、だけど本当は他の誰に待たれなくてもいい、彼女が待っているという確信がほしい。

これからも勝手に待っていると言った以上、彼女には入試を通ってもらわなければ困る。うっかり浪人でもされてしまったら、彼女に言いたかった言葉が出番を失ってしまうだろう。あの日涙を堪えた春が今年も来る。数年越しではあるが春の陽の中で笑いを堪えない彼女を見たい。ノートを一枚切り取って、雑に置いた鞄からペンケースを取り出した。少しだけ震える指先は、離れた時間のせいにしてしまえばいい。

2015.10.28 happy birthday.

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