「あっ!いた神鷹くん!」
一日の訓練も終わり帰路につく神鷹の耳におぞましい声が聞こえる。姿を確認するまでもない、あいつだ。その声を確認するなり脱兎の如く駆け出す神鷹。武軍装戦高校校門前にて行われるこのやり取りは最早名物となっている。
神鷹のあとを追っているのはみょうじなまえ、華も恥じらう高校三年生。のはずである。ミニスカートが翻るのも辞さず彼の背中だけを追っている。
「待ってよ、なんで逃げるの」
細身ながらも武軍生、まして今は引退したとは言え野球部である。今でも毎日鍛えている神鷹は当然そこらの男よりは走れる男である。しかしなまえは離されるどころかぐんぐん距離を詰めてくる。彼女は元陸上部で短距離の選手であった。
何故逃げると言われても答えはただ一つ、神鷹はなまえが苦手なのであった。
初めて会ったのは夏の終わり。
選抜に選ばれた神鷹が武軍へと戻ると、校門の前にいたのがなまえである。軍隊養成高校のため国家機密が多い、当然校舎の中に易々と入れるはずもなく教師につまみ出されていた彼女は神鷹を見つけるなりパアッと表情を明るくした。
「あ、あの!神鷹くん!」
何故自分の名前を?と思ったが優勝した選抜に入っていたので神鷹はすぐに理解した。大方テレビでも見て自分を知ったのだろう。とは言えパッと見には綺麗な顔立ちをした女子がまさか自分を訪ねてくるとは思ってもみなかった神鷹は面食らう。
首を傾げる神鷹を見上げ頬を染める様子は、自分に好意を寄せていると言う贔屓目を差し引いても可愛らしい。動揺を悟られぬよう彼女の言葉を待ってやる神鷹だったが、思いも寄らない彼女の言葉にそんな感情は早々に打ち消された。
「結婚してください……」
キャー、と一人赤面して顔を覆うなまえに、神鷹は目を丸くした。
女子からの告白、というよりまさかのプロポーズに嬉しさを通り越して神鷹は思わず固まってしまった。感極まっておかしなことを言っただけだろうと一度は冷静になった神鷹だったが、彼女は尚も爆弾を投下していく。
「サインと判子くれたら、卒業式に出しに行くから」
そうして差し出されたのは紛れもなく婚姻届で、神鷹はゾッとした。背を冷えた汗が流れていく。夏の終わりとは言え蝉が鳴くほどにはまだ暑い。炎天下の校門前で、神鷹は生まれて初めてのプロポーズを初対面の女から熱烈に受けた。
少し頭のネジが飛んでいるとは言え仮にも女子であるなまえを、神鷹は最初こそ邪険に扱うことはしなかった。
「(ごめん)」
と断ると今度は彼女の方が目を丸くした。神鷹が手話で言葉を紡いだことに驚いたらしい。彼女には手話がわからぬ。しかし申し訳なさそうな神鷹の表情で全てを察した。俯くなまえの表情は神鷹にはわかりかねるが、泣きそうな顔をしていることは容易に想像できる。気まずさから背を向け立ち去ろうとした神鷹の手首をなまえが掴んだ。驚いて振り向く神鷹に、彼女は言う。
「私、諦めないから」
そのまま神鷹の背中に指ででっかいハートマークを描いた彼女の行動は、神鷹の夏で最も身の毛のよだつ出来事となった。
「今日こそは聞いてもらうからね!」
そして今に至る。何日も来ない日もあれば毎日神鷹を訪ねてくることもある。そして今日は数日ぶりに彼女は来た。
「(黙れ ストーカー)」
足を止めることなく振り向き様に神鷹は手先で罵倒する。それを見た彼女は激昂した。
「恋する乙女に向かってひどいな!」
ムキーッと怒り出す彼女がいつの間に手話をマスターし、意思疏通を謀ろうとしていることに神鷹はまたしても恐怖を感じる。そもそも高校生のくせにどうやって婚姻届を貰ってくるのかさえわからない。何度か目の前で破り捨てたはずなのに、懲りずに彼女は婚姻届を持ってやって来る。あの行動力がどこから来るのか神鷹には計りかねていた。
黙っていれば顔はかわいい方だと思う。あまり女に興味を示さない神鷹が思うほどにだ。「神鷹さん最近かわいい女子に付きまとわれてますね」と羨ましがる後輩もいるが、とんでもない。代われるものなら代わってほしいとさえ思う。
一人でいることを苦に思わない彼にとって、恋人はいてもいなくてもどっちでも構わないのである。寧ろあんな女と結婚するくらいなら悪魔に魂を売った方がましだとさえ神鷹は思う。それくらい彼はみょうじなまえが苦手である。
初めての出会いから楽しくもなんともない追いかけっこを続け早1ヵ月。
いつもならとうに巻いているはずだが今日の彼女は諦めなかった。体力には自信がある神鷹だったがさすがに訓練漬けの一日の終わりにはキツい。しかし今日の彼女はこのまま神鷹の家まで着いてくる勢いである。自宅まで突き止められるのはごめんだ。疲れてはいるが遠回りになるのも致し方ないと神鷹は自宅とは反対方向の角を曲がる。突然のことに動揺したなまえは、派手な音を立てて転んだ。あまりの音に神鷹は振り返る。彼女の白い膝からは血が滲んでいた。目に涙を溜めていて、溢すのを堪えている。
「い、痛くないし、全っ然痛くないし」
なんの強がりだ、と神鷹は呆れ返る。得体の知れない薄気味の悪い女だとしても、盛大に転んだ女子を放っておけるほど冷酷にはなれない神鷹は、小さなため息を吐きながら仕方なく彼女に近づいた。
「(大丈夫か)」
立てる?と神鷹が差し出した手を、泣きそうな顔のまま彼女は自分の方に引き寄せた。神鷹が気づいたときには時すでに遅し、本当に女子かと疑うほどの怪力で引っ張られ膝をついた彼の背中になまえは腕を回した。
「離せ変態」
「絶対やだ。てか神鷹くん声も素敵ね」
膝からとめどなく血を垂れ流しながらケラケラと笑う姿は狂気に満ちている。いいからその痛々しい膝をどうにかしろと体を離す神鷹になまえは遂に泣き出した。
「私のなにがダメなの?かわいいねってよく言われるよ」
「(自分で言うな)」
「神鷹くんのこと全部受け入れる。全部知りたいよ」
殺し文句にも思うが、状況が状況なので神鷹は全く嬉しく思えない。困惑することしかできない神鷹に、なまえは更に続ける。
「私神鷹くんのことなにも知らない。出身中学と誕生日と血液型しか知らないし身長と体重はなんとなくしか予想つかない」
充分だろ、と神鷹は顔を引きつらせる。寧ろ教えた覚えもないのに何故知っている、と思わず後ずさる。その行動に傷ついたのか、えぐえぐと泣き出したなまえの手から婚姻届を奪うと、そのままいつものように破り捨てた。 そして溜め息を一つ溢す。
「(順番おかしい)」
「え?」
例えちょっと頭のおかしい女だとしても、神鷹とて人の子、人からの好意を無下にして胸が痛まないわけではない。
この女と結婚する気など断じてない。その気持ちに嘘などなく、今の時点では本当に御免被りたい気持ちでいっぱいである。そう、今の時点では。
「(友達からなら、始めてもいい)」
言い淀み、目線を泳がせる神鷹。
神鷹のことを知りたいとなまえは言ったが、神鷹とて頭がおかしいということ以外彼女のことをよく知らないのである。かつてなら「こんな女のことなど知って堪るか」と思ったことだろう。ろくに相手をしなければそのうち諦めると思っていたが、神鷹は遂に彼女の執念に根負けしたのである。
神鷹の突然の申し出に、なまえは開いた口が塞がらない。根気よく着け回し続けた彼女は半ばやけっぱちだったのである。神鷹が自分を好いてくれるはずなどない、叶わない恋なのだと。それでもやれることはやりたい。せめて好意を剥き出しにすることくらいいいだろうと。一歩間違えればストーカーになっていたが、思わぬ形で今日、実を結んだ。
相変わらず呆然としている彼女に、神鷹は尚も続けた。
「(追いかけられると怖い)」
「……わかりました」
「(いきなり飛び付かれるのもびっくりする)」
「すみませんでした」
「(騒がれるのも好きじゃない)」
「……努力します」
それから、と神鷹は続けようとしたが、俯き肩を震わせる彼女の異様な状態にぎょっとする。言い過ぎたか?と恐る恐る様子を伺うが、彼の心遣いは杞憂に終わる。
「全部直したら結婚してくれるんだね」
顔を上げた彼女が、喜びで唇を噛み締めているのを見てさすがの神鷹とて堪忍袋の緒を切らした。
「(話聞け)」
「いいの、わかってる。私頑張るから」
「(前言撤回。帰れキチガイ)」
「照れないでよ〜、私まで照れるじゃん」
血の滲む膝と頬を赤く染める彼女に早速匙を投げたくなっている神鷹だが、彼の苦労はまだまだこれからなのであった。
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