「すまんが一つ頼まれてくれないか」

我が家のチャイムを鳴らした屑桐が、仰々しく言ったものだから期待してしまうのは恋する乙女としてなんら不思議はないだろう。

「え、ごめんちょっと待って今変な格好してる」
「別に俺は気にしない」
「いやそういう問題じゃないから」
「早くしろ、タイムセールに間に合わん」
「え?」

休日の昼下がり。訪ねてきた屑桐からの誘いはデートだなんて甘いものではなくタイムセールの頭数として駆り出しに来ただけだった。ひっそり項垂れるも「悪いが成人一人につき一つなんだ、頼む」と頭を下げられては行かないわけにいかない。惚れた女の弱味である。

「わかったよ、あと三分待って」
「恩に着る。それにしても貴様は休みだからといってだらけすぎじゃないのか」
「あーもううるさい、あ、あと冷蔵庫のお茶適当に飲んでて」

屑桐の小言を早々に切り上げ最短時間で身支度を済ませる。居間に戻ると所在なさげにテレビに向き合う背中が見えて少しだけ笑いそうになる。待たせたことを詫びるとさっさと家を後にした。


「今日はなに買うの?」

スーパーまでの道中、訊ねると目的のものをつらつら連ねていく屑桐の横顔を見上げた。

「今日は卵と洗剤が安い、それと豆腐も欲しいのであとで寄らせてもらう」

この風格からは想像もつかないほど所帯染みたことを言う屑桐は、かつて華武を甲子園に導いた怪物投手である。屑桐の家庭事情は周知のこと、テレビも半ばおもしろがって報道するものだから私としてはおもしろくない。
屑桐がここまでストイックになれたのには、確かに家庭のこともあるかもしれない。もしも屑桐の家が裕福だったなら、彼はここまで野球に執着せずに普通の生き方を選んだのかもしれない。普通の感性を持っているからこそ、その分栄光に飢えている。

「おい、なにを間抜けな顔をしている」
「は!?なにその言い方ひっど」

惚れた男に真顔でそんなことをしれっと言われるこっちの気など露知らず、屑桐はさっさとスーパーへと入っていく。その背中を追い掛けていくと、早速タイムセールが始まっていた。
決して穏やかとは言い難い人相の大男に奥様達は一瞬怯んでいたけれどここは戦場である。人波を掻き分けて戦利品の卵を引っ付かんだ屑桐を見て私もがんばらねばと思ったものの、おばちゃん集団の執念には勝てなかった。

「フン、情けない」
「ごめんなさい……」

屑桐の役に立てない自分が情けなくて俯くも、彼はさっさと次の目的へ歩を進める。彼はいつだって過ぎたことを悔やんだりしない。次だけを、明日だけを見ている。だからこそ私は屑桐が好きなのだけれど。近所のなんの変哲もないスーパーといえその好きな男に誘われた貴重な時間、タイムリーに始まった洗剤のタイムセールの波に特攻する。おばちゃんに揉まれながらも今度はしっかり洗剤を手に屑桐と共に波を抜けると彼は薄く笑った。

「よくやった、ご苦労」

駆り出しておいてなにを言うか、そんなことを普通は思うのかもしれないけれど惚れた女は弱い。その言葉に嬉しく思うのだから。



「無汰達お腹空かせてるかなあ」

帰りの道中、両手に買い物袋を提げた屑桐に問う。私も持つとは言ったけれど「俺の鍛練も兼ねている」なんて言われてしまったら甘えざるを得ない。時折見せるこういう優しさが心を掴んで離さない。

「そういえばこの前ね、無汰百点取ったんだよ」
「ああ知っている」
「あんたに似て頭のいい子に育つんだろうねー」

この男が日々殊勝に生きているように、それは下の子供達にも受け継がれている。男は背中で語るというけれど、屑桐がまさしくそうだ。

「いつも助かっている、すまないな」

ふと屑桐がそんなことを言い出したので面食らってしまった。屑桐がバイトや部活で家を空けるとき、おばさんが心置きなく仕事に行けるように屑桐家の子供達の面倒を買って出ている。それは私が勝手にやっていることで、更に言うなら屑桐の夢に添いたいという私の自己満足に過ぎない。

「私がやりたくてやってるんだから大丈夫だよ」

だけどふとしたときに考える。屑桐は遠い地で入団が決まっている。屑桐家には幼い子供達とおばさんだけが残されるのだ。彼に会えないことも、そりゃあ苦しいけれど。

「屑桐があっち行ってもさ、私、待っててもいいかな」

会えない間、折角彼が掴んだ夢だ。伸び伸びプレーできるように、その間。
半ばプロポーズにも近い。それでも緊張なんてものは一切なくて、ただ私がそうしたいだけで別に深い意味なんてなかった。
屑桐がそばにいないのにただの友人である私が屑桐家に出入りするのはどうかと思う。だけど彼の分まで、彼が大切に思う家族を私にも守らせてほしいのだ。

「貴様がいいなら、よろしく頼む」

ふっと瞼を伏せた屑桐の笑顔にじんわり胸が温かくなる。私の気持ちは伝わっている?確かめるまでもなく、屑桐がぽそりと呟いた。

「家族が増えると喜ぶだろうな」
「そうだといいけど」

それってどういう意味?なんて野暮なこと、聞いたりしないけれど。今はまだ高校三年生、プロポーズは大人になってから改めて聞かせてほしい。
「やっぱり一つ貸して」と買い物袋を引ったくる。空いている手で屑桐の手を握ると、案外強い力が返された。今はまだ、それだけでいい。

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