目の前の女はいつになったら音を上げるのだろうと影州は思った。
こうして自分が女をたぶらかすのを目の前で何度も見てきて、その度苦しそうに唇を噛む影州の恋人、なまえの限界を見てみたいと思ったのが運の尽き。歯止めが効かない男の浮気は止まることを知らない。そうして遂に限界が訪れる。しかし先に音を上げたのは影州だった。

「お前さあ」

嵐が去ったあとの静かな部屋に二人。立ち竦んだまま先程から一切顔色を変えないなまえに影州は声を掛けた。

「俺のこと本気で好きなのかよ」

影州の声は小さく、それは訊ねるというより自身に問い質すといった方が正しいような声だった。それに漸く目線を影州と合わせたなまえの目は据わっている。その目を見た瞬間、先程まで影州を蝕んでいたあらゆる欲が消えていく。
女というのは常面倒くさい生き物で、独占欲の塊なのだと思っていた。だからこうして一人の男を巡る女二人の修羅場になったとき、いいだけ激昂してさっさと部屋を去っていった女の方が正しいのだと、それが恋する女のあるべき姿なのだと影州は思う。

「好きよ」

影州の目を真っ直ぐ見つめた彼女の声が、嵐の去った静かな部屋に響く。そこには感情なんて一切ないように影州は思った。

「怒んねえのかよ」

恐ろしいほどまでに静かななまえに影州の口元は僅かに引きつる。それでも彼女は小さく口元を歪めた。

「怒ったって変わらないでしょ」

ぽつりぽつり。聞かれたことにただ答えるだけの彼女に影州は業を煮やす。どうせなら詰ってくれた方が幾らかましだとさえ思う。先程までいた女のように、影州の頬に平手を打ってくれた方が彼も懲りるというのにこの女。

「なんで俺と付き合ってんの?」

他にも聞きたいことは山ほどあった。自分と付き合っていて楽しいのか、呆れないのか、浮気をされてどう思うのか。だけどそれらの質問全てをいっしょくたにして影州は一つの質問を投げ掛ける。彼女はそれでも小さく笑い、荒れた部屋を少しずつ片していく。

「影州が好きだから」

それはなんてことないように紡がれた。まるで当たり前のことのように、だけどその言葉から彼女の本心は見えてこない。
影州自身、女からの好意は有り難く素直に受け取ってきたし自分も与えてきた。だからこそ彼女の言う“好き”のどこに好意があるのか、彼の経験上それが見えない。好きだと言うなら何故こんな状況でけろりとしていられるのか。泥棒猫だなんて些か古臭い雑言をぶつけられて顔色一つ変えないのか。影州にはそれがわからない。

「普通こんな状況で冷静でいられるかよ。俺のことほんとはどうでもいいんだろ」

糾弾する影州の声は震えている。自分で蒔いた種だというのに、その種は実ったが、彼の思う通りには育たなかった。蒔いた本人の限界が先に来てしまっては甚だ本末転倒だ。それを聞いても尚、ゆるく唇を噛み締めて眉を下げる彼女が何よりもの証拠。

「どうでもいいならとっくに別れてる。だってあんた最低だもん」
「その最低な男とおめーはいつまで付き合ってんだよ」

別れてほしいと思っているわけではない。だが影州が知りたかったのは。

「お前が俺を好きなのかわかんねえよ」

ただそれだけだった。




彼女は思う。
彼の思う“普通”の女では埋もれてしまう。帰る場所を自分に定めてさえいてくれれば、あとは耐えるのみ。遊んでやるつもりが遊ばれていたと彼が知ったとき、今度こそ振られるのは自分の方だと。こうして彼がいつしか自分のことしか見えなくなる日をひっそり待ち侘びていたのだと。
そして彼女も本当はとうにわかっている。彼がとっくに自分の策に溺れていることも、そうして彼女もまたいつしか彼に溺れていることも。

馬鹿な子ほど可愛いとはよく言ったものだ。ダメな男ほど愛しい。
そしてそれに気付いたとき彼は思うだろう。よく笑う女ほど怖いものはない。したたかさにもまた惚れたのだからもう溺れていくしかないのだが、それで成立する愛は至って歪で、だけど恐ろしいほどに純粋だ。だからこそ余計に質が悪い。
彼が今まで受け取ってきたどんな好意より重すぎる愛に気付いたとき彼はどうするか、それでも考えるまでもなく自分から離れられなくなっているのは影州の方だ。だから女は笑みを浮かべる。

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