男は裏切っても金だけは私を裏切らない、大学一年にして悟った私は学校からそのままバイトに向かうような毎日を送っていた。楽しくない仕事内容も小言ばかりのおばちゃんもモンスターみたいな客もなあなあの店長も全部我慢して、給料日にATMの前で笑うのはこの私。それだけが唯一の生き甲斐であり、どれだけ体が疲れてもその日を思うと続けていられた。学校を辞めて働けばいいなんてことは思わない。今よりもっと笑うために、私は学力を身につけるのだ。そのためならサークルだってゼミだってなんだって耐えられる。私を突き動かすものは全て金に繋がっている。

「みょうじさんゲスいこと考えとるなあ」

そう言って招き猫のように眉を下げて笑うのは同じバイト先の黒豹。彼は高校二年生だが、彼も私のことを笑えないはずだ。
金が全てだと笑うのは黒豹とて同じである。そしていくつもバイトを掛け持ちしている彼は私以上に金の亡者だ。

「黒豹には言われたくないなあ」

空いている店内を眺めながら悪態を吐く。お客なんてほとんどいないのだし、増して店長も今は厨房に籠っている。そうでなくとも事なかれ主義の店長だ、サボっていてもなにも言わないだろう。私と黒豹しかこの時間帯シフトは入っていない。うまくサボればいいのに。そうは思うもこの男、本当によく働く。

「疲れないの?このあともバイトでしょ」
「ええんやって、ほらみょうじさんもサボッとらんとはよ仕事してくださいよ」

はい邪魔。そう言いながらさっさと掃除を始めた黒豹を見習って私も嫌々テーブルを拭きに回った。




その黒豹がバイク事故に遭ったと聞いたのは、次の日のバイトのことだった。店長から聞かされたそのありえない言葉に、思わず呼吸が止まるかと思った。

「ってわけでみょうじさん、しばらく黒豹くんの代わりでシフト増えるけど大丈夫?」

私は黙って頷いたけれど、今日だけはこの事なかれ主義の店長の胸ぐらを掴みかかりたくなった。人が一人事故に遭ったというのに、なぜその心配よりシフトの心配なんだ。シフトなんていくらでも埋めてやる。だけど。
昨日まで一緒に働いていたやつだ。それも、ここを出たすぐあとのことならば尚更心配しなければいけないんじゃないのか?あんなによく働くやつのことを、なんで、なんで。
言いたいことは山ほどあった。だけどそのどれもを飲み込んだ。やるせない気持ちを携えながら、次の休みにはあのバカの見舞いに行ってやろうと考えた。


見舞いに行くと黒豹は酸素マスクをしながら体を横たえていた。あれから既に何日か経っている。なのに未だに目を覚まさない様子に、そんなに重体なのかとゾッとした。
ぼうっと突っ立っていると、がらりと戸を開け入ってきた少年と目が合う。軽く会釈して、彼は黒豹のベッドの脇から椅子を引き私にも座るよう促した。

「……ほんまこいつアホやわ」

ぼそりと呟いた彼の言葉に、それまで黒豹をぼんやり眺めていた私は顔を上げる。彼は今にも泣き出しそうだった。

「こいつ、ずっと野球やっとったんですよ」

そこから話し出された内容に、私は返す言葉が見当たらなくて、彼の話を全部聞いたあとそのまま立ち去った。その場にいられなかった。




なにが金が全てだ。なにが信じられるのは金だけだ。ばかだ。大馬鹿野郎の嘘つき野郎。あんたが信じたかったのはなんだ?金じゃないだろう。誰のために働いてた?誰のためにそんなになるまで働いてた?なんで。なんで。

病院を出るとそのまま居ても立ってもいられなくて走り出す。どこへ行こうと言うのだろう。どこへ行きたいのだろう。自分でもわからない。

黒豹と私が同じだなんて思った自分が恥ずかしくて仕方ない。彼が信じたかったのは金なんかじゃない。相棒が目を覚まして、そして共にまた野球をすることだ。だからあんなになるまで働いて。
それなのに。ばかじゃないの。あんたまで事故に遭って、誰が、誰が報われるっていうの。
やりきれない思いが全身を駆け巡る。そしてそのまま嗚咽をもたらして、どこにも行けない私は立ち竦んだ。金で買えるものだけが全てだと思った。でも私の居場所も行きたい場所もなにもかも、金なんかじゃ買えない。金だけで全てを推し量ろうなんてできるわけがない。私と同じだと思っていた高校生の黒豹は、それを知っていた。
信じられるのは金だけだと言っていた黒豹は、ほんとは全部知っていたんだ。金さえ信じていれば救われるって、信じていたんだ。

焼き尽くすような太陽が、そのまま私の涙を蒸発させて天へと昇る。最悪な気分だ。なにも知らないふりをして世の中全てを照らす太陽が、こんなにも鬱陶しい。もっと照らすべき場所があるじゃないか。なにが平等だ。そんなの、馬鹿馬鹿しいったらありゃしない。

世の中を縦横無尽に飛び回る金達は、彼らを決して幸せにはしてくれない。なんて惨い世の中なんだろう。金だけが全てじゃない。そんな綺麗事、金で苦労してないやつが言えることだ。金で幸せになれる人がいる。目を覚まして、また当たり前のように何気なく笑える人がいる。
天下を回る金達、どうか彼らの元へ幸せをもたらしてくれ。
仰ぎ見た馬鹿馬鹿しいほどの青空は、滲む視界がぐらりと揺らしてそのまま頬を溢れ落ちた。金で買える幸せは、金で買えない幸せを知る者にしかわからないのだと知った夏の日だった。

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