「なまえさん進路どうするか決めた?」
「わたし県外に進学するよ。だから及川とは会えなくなるね」
「へー、なまえさんが?がんばってね〜」
「私も頑張るから、私達が卒業した後のこと頼んだわよ。ちゃんとやんなさいよ」
「わかってるってばー、ほんとなまえちゃんは心配性だなあ」
「まーたあんたはそうやって先輩をちゃん付けして。
私のこと何だと思ってんのよ」
「ん〜、それはなまえさんが帰ってきた時に聞いてもらおうかな」


あの日の会話から1年以上が経った。
青城バレー部のマネージャーを三年間務めあげ、インターハイが終わって部を早々に明け渡した私達の代は、その後遅れを取り戻すかのように勉強に取り組んだ。そのお陰で私は第一志望の大学に推薦を貰え、晴れてこの春、大学生となった。

県外進学ということで頼れる人はおらず、勉強だけでも骨が折れそうになる専攻を最後まで反対していた両親に必要最低限しか頼ることもできなかった。慣れない一人暮らしやアルバイトで精神よりも先に体が悲鳴を上げたのは、つい1週間前のことである。バイトの帰りに倒れ、病院で目を覚ました私はひどく憔悴しきっていたため、強制的に1週間の休学と一時帰省を命じられた。
その次の日には、私はもう、宮城にいた。

あの頃は、こんなにボロボロになって帰ってくることなど、予想していなかった。高校3年生の私は、名ばかりの覚悟を楯に、世界を甘く見ていたのだ。


「久しぶりー!!」

母校である青葉城西の門を潜り、かつて放課後に毎日時間を費やしていた体育館の扉を開ける。ボールの音とシューズが床を擦る音、部員達の声が心地よく耳に入ってくる。
懐かしい。去年は毎日ここにいたのに。
声を掛けると見知った顔も知らない顔も、一斉にこちらを向いた。

「みょうじさん!お久しぶりです。今県外のはずじゃ、」
「束の間の里帰りってやつ。にしても岩泉いい男になったね〜」

最上級生、そして副主将という責任が彼を心身ともに成長させたのだろう。それは顔つきに表れていて、あどけなさはほとんど残っていなかった。しかし“いい男になった”と言われた岩泉は、年相応に照れていた。
どれだけ成長して男らしくなっても、私の方が1つ年上で、いつまで経っても彼は私の後輩なのだと思った。当たり前のことではあるけれど。

「なまえさん久しぶり〜」

恐らく私が卒業してから入った1年生と思われる知らない子達の間から、ひょこっと顔を出したのは及川だった。穏やかな笑顔を浮かべて、ひらひらと手を振っていた。バレーもうまく体格も良く周りをよく見る子ではあったが、何かと問題児で私の手を一番煩わせた後輩。
手を焼いた分、可愛がってもいた後輩。

「及川あんた大丈夫?主将とかちょっと心配なんだけど」
「うん、ダイジョブダイジョブー。うまくやってるよ」
「クソ川、先輩に敬語使え」

すかさず岩泉が口を挟む。それでも及川はあっけらかんとしている。

「……岩泉ほんとう?」
「……。」
「ちょっと岩ちゃん!?」

このやり取りも懐かしい。あぁ、私は帰ってきたのだと、帰らされたのだと思い知る。だけど、いくら私が戻りたいと思っても、私の時間ごと戻してはくれなくて、本当は帰ってくるべきではなかったのだと身に滲みた。ここは私のいるべき場所ではないのだと。
事実、話に入れず、かといって先輩達にとっては懐かしい人物の登場のせいで部活が中断したため、肩身の狭くなっている1年生達がいる。春高予選の前の大事な時期なのに、私はなんて安易なことをしてしまったのだろう。自分に話し掛けてくれる後輩達と、私とは直接関係はなくとも私の後輩に当たる子達を見て、複雑な気持ちだった。

「ごめんね部活中断させて」

少し遠くで私達の様子を眺めているだけだった子達に声を掛けると、首を激しく横に振る。今年の1年生は背が高い子が多いし、見た限りではいい子達ばかりだ。だからこそ、余計に申し訳なく思った。

「部活終わるまで待っててよ。少し話そう」

及川が私の頭に手を置くと、「さっ、再開するよー」と背を向けた。その背中は、私が知っている手の掛かる後輩ではなかった。

校門の前で待っていると、及川はどの部員よりも遅く出てきた。主将なのだから当たり前だけれど。
「お待たせなまえちゃん、帰ろっか」と私の隣に並ぶ。彼氏か。

「どう?春高、行けそう?」
「うん、ウシワカちゃんならそろそろ倒すよ」
「京谷くんも戻ってきたみたいだしよかった〜。卒業したとき一番の心残りだったのよ」
「えっ?なまえさんは俺が一番じゃなかったの!?」
「あんたとは違う意味でよ」

会話はポンポン弾むのに、私の足取りは重い。宮城に戻ってから昨日まで、親と会話することはおろか部屋から出ることもままならなかった。合わせる顔がない。この時間なら父もいるだろう。

「なまえさん予選来る?」
「予選は無理かなー。明日戻るもん」
「えー来てくれないの?でも、」

帰りたくないって顔してるよ。
見透かしたような目で私を見下ろして立ち止まった及川に合わせて、私も立ち止まる。さっきまでの和やかな雰囲気と違って、空気が一瞬にして変わった。

「こんなに痩せちゃってさ」

私の手首を掴む及川の手が、対比して更に大きく見えて、同時に私の腕が病的に痩せ細っていたのをより際立たせた。掴まれているというのに、その手の温かさに泣きたくなったのは、ここが地元宮城だからで、及川だからなんかじゃない。


「ツラそうななまえさんを放り出すくらいなら、ここにいてよ。俺がそばにいるからさ」

掴んでいた手を離して、私の体を抱き寄せる。 制汗剤に掻き消されたはずの及川の匂いがぐっと近づく。

「でも、私が決めたことだから」

あの日の忠告達を、無視した罰として今になって身に滲みる。確かに世の中は女子高生の私が思っていたより甘くはなかった。だけどここで尻尾を巻いて逃げるのは、違うと思った。
なんにもうまくいかない予想外に不器用な格好悪い私は嫌だ。だけど、格好悪くてもがむしゃらにしがみついて藻掻く私より、それから逃げ帰ってくる情けない私の方がもっと嫌だ。

「なまえさんが一人で無理しちゃうのも俺は知ってるよ」

例えば大人数の部員を管理すること、問題児の説得、俺のファンからの嫌がらせだってずっと一人で耐えてたの知ってるよ。及川の腕の中で、いつになく及川が優しく言うもんだから、喉から 込み上げてくる嗚咽を噛み殺すのが精一杯だった。
知っていたんだ、及川は、全部。
チームメイトをよく見ている子だと思っていたけれど、マネー ジャーの私のこともちゃんと見ていたんだ。私が高校時代、誰にも言わずにしていたことも、我慢していたこと も。自分のことなんてどうでもよくて、選手達が生き生きと部活ができればそれでいいと本気で思っていたから、何一つ苦じゃなかったけれど。

「何でそんなになるまで誰にも言わないの。みんななまえちゃんのこと助けてくれるから、もっと頼ってよ。俺のこともさ」

何が正しかったんだろう。あの日の忠告を、もっと真剣に受け止めていたら変わったんだろうか。そんなこと何百回考えても答えが出なくて、誰にも聞けずにいたのに、どうしてこの男はこうも容易く受け止めてしまうのだろうか。どうしてこうも容易く私の心に入り込んで来るのだろうか。 本当はずっと押し込めていた色んな感情が、もやもやと私を支配する。

「本当は今だって泣きたいくせに、強がんないでよ」

及川が私の髪を撫でる手があまりに優しくて、堪えていたはずの涙が堰を切って溢れだした。見た目より厚い胸板に額を預けた。真っ白いジャージにマスカラやらアイラインをつけてしまわないか 本当はすごく気になったけれど、一年越しにこの男に甘えてもいいのだと、その手が言ってくれていた。

「……ばか。本当、あんたって私のこと先輩と思ってない」

震える声は抑えられなかったけれど、せめてもの抗議。昔から私に敬語は使わないし、ちゃん付けで呼ぶこともあったし、 へらへらして、沢山迷惑かけられて。それなのにこの問題児が、可愛くて、愛しくて仕方なかった。ずっと押し込めていたのに、どうして今更抱き締めたりするんだ。 泣いてもいいなんて言うんだ。

本当は、気づいた時にはもう好きだった。
普段のお道化た態度も、バレーにはいつだって真摯に向き合っていたところも、私に言ったくせに自分だって一人で無理するところも、本当は全部全部好きだった。守りたいと思った。彼が壊れてしまわないか心配だった。 後輩なんて、本当は思ってない。ずっと自分の気持ちに気づかないふりをして逃げていたのに、どうしてわざわざ今なのよ。 明日には、戻るのに。

「戻ってきたら聞いてほしいって言ったこと、覚えてる?」

今、聞いてほしいんだけど。
抱き締める腕に力を込めて、私の髪に顔を埋める及川の声がいつもより近くから聞こえる。

「なまえさんのことずっと女の子として見てた。だから、県外に出るのだって嫌だった。でもなまえさんの夢を邪魔したくなかったし、それになまえさん意地っ張りの頑固だし」

及川の声と、抱き締める手が震えている。彼女なんてすぐ取っ替え引っ替えするこの男が。真っ直ぐ心に響いたのは、きっと及川と付き合ったどの子よりも、本当はずっと愛されていたのだと確信するものがあったからだ。わかりやすすぎて、逆にわかりづらかった好意。
もっと昔に真っ直ぐ受け止めていたら、きっと違う風に変われていたのに。もっと昔に真っ直ぐぶつけていたら、きっと及川に不器用な愛し方はさせなかったのに。

「……私も、好き、ずっと前から」
「えっ!?ウソ、それは気付かなかったなぁ」

本当、なまえちゃんはわかりづらいな。
その言葉が本当だと、及川の顔を見なくたってわかる。だってずっと見てきたのだから。この男のことだ、すぐ気づかれてしまうから、気持ちごとどこかに追いやった。でも及川が私のことを昔から好いてくれていたのなら、そんなこと、しなければよかった。

嬉しいはずの告白に、何故か次から次へと後悔が浮き彫りになっていく。この恋にきっと、明るいものなど最初から存在していなかったのかも知れない。ここにいてほしいなんて、言うけれど。好きという気持ちだけで、帰りたいという気持ちだけで全て投げ捨てられるほど現実は甘くない。どれか1つだけ捨てて、それでもうまくいかない程に、私は全ての選択を間違えてしまっていたのだろう。

「好き、だけど、戻るからね、私」
「えー何でー?やっとなまえさんと気持ちが通じたのにー」
「それは、私も同じだけど、」
「わかってるよ。行ってらっしゃい」

そう言って私の背中をあやすように叩く。骨張った、だけど繊細な及川の手。行動だけじゃなくて、言葉でも、気持ちでも背中を押してもらった気がした。

「でもなまえさんが帰ってくるところは俺のところだからね」

この男も、伊達に私を見ていたわけじゃないらしい。私が言うことも予知していたのだろう。当たり前だ。お互い忙しくて、距離もある。更に及川には未来だってある。春高が終われば、彼も進路を決めなくてはならない。そんな及川のことを私が縛れるはずがないのだ。

「及川に好きな人できたら、私のこと、待ってなくていいよ」
「まーたなまえちゃんはそういうこと言う」

抱き締めていた腕を解いて、私の頬をつねる。
その痛みが、この甘い時間が現実なのだと教えてくれた。

「いいよ、勝手に待ってる。俺だって何年も好きでいたし、なまえちゃんも俺のこと好きってわかったからもっと待ってられるよ」

普段は軽口ばかりが目立って、意地の悪いことだって平気で言うけれど、どうしてこの男はこんなに優しいんだろう。決心が鈍りそうになる。好きだけど、好きだからこそ、及川を縛りたくないし幸せになってほしい。
だけど及川と幸せになりたいなんて、私が一番思ってる。

「卒業したらさ、なまえさんの近く行くから一緒に住もうよ」

もう一度、私の頭を抱き込んで及川は言う。空中を彷徨っていた私の手は、及川の背中を求めてしがみついた。

「そしたら俺もなまえさんも待たなくていいし」
「なに言ってんのよ。バレー強いとこに行くのよあんたは」
「なまえさんの大学の近くにバレーの強豪あるよ」

なまえさんが進学決まったとき調べといたんだよ。

これが好きな人の言葉じゃなかったら、ストーカーみたいで気味悪いけれど、想いが通じあう前から私のそばに行こうとしてくれてたことが嬉しい。

「もう一人で無理させないからさ。一緒にいてよ。それまで待ってて」

及川の限りない未来を縛ることに罪悪感がないと言えば嘘になる。でも、大切そうに抱き締めてくれる及川を信じたいと思うし、一緒にいたいと思う。一人で無理するなと及川は言うけれど、それは及川だって同じだ。だから二人で支え合える未来が待っているなら、私は宮城を出る明日からだって、頑張れる気がした。私の帰る場所は宮城で、そこに愛しい人が待っている。その愛しい人のいる場所が私のすぐそばに来てくれるなら、そこが私の帰る場所になるのだろう。

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