「ごめんね、この子飲みすぎちゃったみたいだからあとはよろしく」

紅印は樹にそう言いつけて、私をさっさと助手席に押し込んだ。飲みすぎたのは事実だけれど気は確かだし足取りもふらついてはいない。なんなら白線の上を歩けと言われたら真っ直ぐ歩ける自信がある。紅印の粋な計らいであると理解はしていても、急なことに頭がついていかなかった。

「(乗ってく?)」
「アタシ達はいいわよ〜。さ、影州帰るわよ。またねなまえちゃん」

樹と紅印のやりとりを助手席から眺めることしかできずに、紅印は私に手を振ると影州を連れてさっさと帰っていった。

樹は怒っているだろうか。忙しいから会えないと言っておいて、飲みすぎたからと夜中に迎えに来させる女なんてふざけているとしか思えない。運転席に乗り込んだ樹からなにを言われるのかびくびくしていると、彼はドリンクホルダーに置いてあったミネラルウォーターを差し出した。

「(具合、大丈夫?)」
「あ、ありがとう……」

買ってきたばかりなのか、受け取ったミネラルウォーターはまだ汗をかいておらずひんやりと冷たい。彼はそれ以上なにも言わず、車を発進させた。

元より運転が荒いわけではないけれど、夜も遅いということで車道は空いているにも関わらず彼はスピードを出さなかった。たぶん紅印から私が飲みすぎたと聞かされているから、助手席に乗っている私が気持ち悪くならないように配慮してくれているのだと思う。彼はなにも言わないけれどそんな気がした。

会うのも久しぶりで、なおかつ怒られてもおかしくない状況だというのに、彼の助手席はひどく居心地がよくて懐かしいような感覚があった。シートに深く沈み込むと微睡んでしまいそうになるほどだ。自分の置かれた状況がわかっていないわけではない、酔いを醒まそうとミネラルウォーターを口にするとすうっと感覚が研ぎ澄まされていく。そしてひとつひとつ、気がついていく。彼の助手席が、こんなにも居心地がよい理由。

私が選んだ芳香剤のにおいや、なにもいじらずともちょうどいいシートの位置や倒れ具合、オーディオに入れっぱなしにしているだけだろうけれど私が好きだと言ったバンドの曲。それらは最後に会ったときとなんら変わっていなくて、会わない間も私以外の人間が助手席に乗っていないことは容易に窺えた。別に浮気を疑ったりはしないけれど、彼の気持ちが離れてもおかしくない状況を作ったのは私に他ならない。単に無頓着なだけかもしれないけれど、プライベートな空間である車内が私好みに保たれたままなことに喜びを禁じ得なかった。

私は彼の隣にいてもよいのだと、言われているような気がしたのだ。

カーステレオは相も変わらずコミカルなパンクサウンドを流し続けている。泣けるようなバラードでは決してない、いつも聞いている耳に馴染んだ音だ。以前彼がこの曲のドラムを練習していたことがある、自分に足りない技術を習得するためだった。その姿を思い出したとき、涙腺はあっという間に緩んでいった。

声を押し殺して泣いていても、隣にいる彼が気づかないわけもなく人通りのない場所に彼は車を停めた。ティッシュを何枚か差し出され、そのまま頭を撫でられる。

「……ごめん」

謝ることなら山ほどあった。迎えに来させたことや車を停めさせたこと、なにも話さず会えないと一方的に突き放したこと、一瞬でも彼のことを、彼らの音楽を疑ってしまったこと。

「……別れた方がいいのかなって、考えてた」

自白すると私の頭を撫でていた手が止まる。酔っぱらいの泣き顔なんてとてもじゃないけれど見せられないから、私も彼が今どんな表情をしているかわからない。だけど彼が息を飲んだことはすぐにわかった。

「もし付き合ってることがバレたら樹に迷惑かけるし、ファンのこと傷つけると思ってた」

そんなの本意じゃない、だけど自分に素直に生きることの、一体なにがいけないと言うのだろう。

「でもやっぱりダメだね、樹のこと好きだもん」

私の言葉に、彼はほっと息を吐く。そのまま抱き寄せられると、彼のにおいや温もりに包まれた。

「一人で悩むな」
「……ごめん」
「考え直してくれてよかった」

短い言葉のやりとりがこんなにも温かかったことを、私は忘れてしまっていたのかもしれない。

「……彼女がいるってバレたところで曲の価値が変わるわけじゃない。だから心配しなくていい」
「紅印も同じこと言ってた」
「さすが」

彼が小さく笑ったのを耳元で感じる。彼の広い背中に腕を回すと安心したのか、私を抱き締める腕に力がこもったのがわかった。私はこんな幸せを、自ら手放そうとしていたのかと思うと恐ろしくなった。

「泣き止んだ?」

頷くともう一度頭を撫でられて、彼の温もりが離れていく。それでも寂しいとは思わなかった。彼の運転する車は再び夜の車道を走り出す。私の愛するボーカリストが、今度こそカーステレオから愛を叫んでいる。彼の隣にいることを苦しく思う日がまた来ても、愛さえあれば乗り越えられるのかもしれない。伸びのある甲高い声を聴きながら、私はそんなことを思った。
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