付き合う前、数ヵ月会えなかった時期があった。あのとき私は樹に体のよい嘘を吐かれたのだとばかり思っていて、苦しかった。後に知ったのは、彼は自衛官をしていて長期任務に行っていただけだったということ。

あのとき私は、なんでなにも話してくれなかったのかを樹に詰ったはずだ。

樹もあのとき悩んでいた。バンドマンである樹のファンとして出会った私に全てを話してよいものか悩んだ挙げ句、結局なにも言わないまま任務へと旅立った。そこですれ違いが生じたのだ。今の私は、あのとき樹に怒ったことと同じことをしている。

突然なんの理由も言わず彼を避けている私に、樹は今なにを思っているんだろう。怒っている?気に病んでいる?あのとき私は、樹を心配していなかっただろうか。
樹だって私のことを心配しているかもしれない可能性に、どうして考え至らなかったのだろう。

「アナタの言いたいこともわかるのよ、ファンとしての気持ちもわかる。でも肝心の彼の気持ちはどうなるの?好きな女の子にいきなりそんな態度取られた挙げ句別れたいなんて言われたら悲しいと思わない?」

樹が私を求める理由なんてないと思っていた。捨てる理由ならいくらでもあると思っていたけれど。だったらどうして一人でも生きていける男が、わざわざ厄介な存在を抱え続けているというのだろう。惰性で抱え続けるには私の存在はあまりにも厄介すぎるはずだ。それでも一緒にいる理由なんて、簡単な話だ。

「他のファンがどう思うかなんて、アナタが思ってる以上に彼にとってはどうでもいいのよ。でもそれはファンのことをどうでもいいと思ってるからじゃないの。彼らが演奏してるものはね、女の噂一つで揺るがない自信があるからよ」

樹の家には電子ドラムがある。部屋の一角に置いてあるそのセットに腰を据え、イヤホンを耳にする彼はステージに立つときよりもずっと真剣で、集中している。時に聞き覚えのないビートを刻んでいることがある、何度も失敗しながら何時間でも練習していることもある。本番であるライブで失敗しないために、新しい技術を次から取り入れるために。

私がどうして樹を好きになったのか。その瞬間を私は今でも覚えている。

もしも樹が顔だけよくてドラムの技術がなく、サイレンスの曲自体なんの魅力もなかったら。私はここまで彼を好きになれていたのだろうか。何度ライブを見ても飽きないほど、好きでいられただろうか。

「どうして彼のことを好きになったのか忘れたの?アナタは自信を持って応援してあげられない人のことを好きになったわけじゃないでしょう?」

紅印の言葉はまるで、苦悩と酔いが回った私の頭に冷水を注ぎ込むみたいにスッと染みていく。そして同時に思い出していく。付き合う前のこと、出会ったときのこと、どうして彼を好きになったのかとか、そういうこと。

「それにね、アナタが思ってる以上に彼はアナタのことを大事にしてるのよ。考えてもみなさいよ、アナタのことがどうでもよかったらあの子がズルズルと付き合ってるわけないでしょう?影州ならともかく、あの子ならそんな面倒くさいことはしないわ」
「オレ今さりげなくディスられてね?」
「例えの一つでしょ。気のせいよ」

言われてみれば確かにそうだ。精神的にも生活的にも自立している樹は私がいなくても生きていける。だけど彼はどんなに忙しくても会う時間を作ってくれて、どんなに疲れていても私のところに帰ってきて、もっと言うとあのとき私を選んでくれた。別に私がいなくたって彼の生活に支障はきたさないのに、それでもそばに居続けている。

私だけが彼のことを好きだったなら、彼の性格上最初からこんな関係は成立していなかった。すごく単純なことに私は今さら気がついたのだ。

「とにかくアタシは別れるのに反対よ。アナタも別れたいわけじゃないなら尚更賛成できないわ。そんな理由、周りに気を遣ってるふりをしてアナタが自分に酔ってるだけじゃない」
「おいアニキやめてやれよ、そろそろこいつ泣くぞ」
「いいわよ肩なら貸してあげる。そのために呼んだんでしょう?」
「泣かないから!でも」

大事なことは案外簡単に見落としてしまうものだ。自分に酔っているだけ。そう言われて肩の荷が降りたような気がした。

「ありがとう」

そっくりな顔立ちをしているのに全く違う表情を浮かべている目の前の二人には、一生頭が上がらないかもしれない。

「また幽霊みたいな顔して悩んでるから心配したじゃない。もっと自信持ちなさい、今のアナタは可愛くないわ」
「なんか……持つべきものは友達だなってすごい実感した」
「ヤダ嬉しい、今日は飲みましょ」
「ふざけんなよお前らオレ面倒見ねえからな」

心のもやがすうっと晴れていく。私は樹の彼女でいてもいいのだ。自分に言い聞かせながらジョッキの中身を飲み干していく。目尻に涙が溜まったのは、ビールの苦味と炭酸のせいだと何度も自分に思い込ませた。



夕方時から飲み始めたものの店を出る頃にはすっかりと夜になっていた。空気はひんやりと冷たくてネオンが眩しい。浮かれた夜の空気はなんだか清々しくて、息を吸い込むだけで気分がよくなってくるのだから酔っ払いというのも単純だ。

「今日はありがとね」

影州と紅印、店の外まで見送りに来てくれた宝町くんにもお礼を言うと三人とも困ったように笑みを浮かべた。

「いいのよ、アタシでよければいつでも話聞くから」
「なまえさんまたお待ちしてます!」
「ありがとう」

宝町くんの店の場所は二度目の来店ということもありもう覚えた。次からはたぶん一人でも来れるだろう。

「なんならもう一軒行くか?オレもたまには酒を出される方になりてえわ」
「ダメよ、迎え呼んじゃったのよ」
「早っ。じゃあ私もタクシー捕まえて帰るね」
「あっ、なまえちゃんもうちょっと待ってて」

呼び止めておいて紅印は笑みを浮かべるばかりで、なにも言わない。その目はきょろきょろと辺りを見回している。

「迎えの人?」
「そうなんだけど、あっ、来た」

紅印が手を振る方に私も視線を向けると一台の車が店の前に停まった。見覚えのありすぎる車体に思わず息を飲む。運転席から出てきた人物は。

「迎え呼んだのはアタシのじゃなくて、なまえちゃんのなの」

樹と顔を合わすのは、久々なような気がした。
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