しばらく忙しいから会えない。

そう送ったのは私の方だった。試験前だというのは本当だけど、別に樹と一緒にいるからといって勉強が滞るわけでもない。私が課題やレポートに向き合っているとき、大体樹は静かにしていて、私に構うことはない。

樹は、私の言葉をどう受け取ったのだろう。

そのことが気がかりで、勉強に集中できるはずがなかった。

なにも思っていなければいいけれど、私の態度が癪に障っているだろうか。気に病んだりしているだろうか。
もう終わりだと、気づいているのだろうか。

樹と付き合い続けることがどれだけ危ないことだとわかっていても、私の方から別れを切り出すことはできずにいた。好きなのに別れなければならないだなんて、それほど心苦しいことはないだろう。
だけど今回の私の態度に不満を抱いた樹から別れを切り出されたとしたら、私は正気を保てるだろうか。自分から彼を遠ざけておいて、ふとそんな恐怖に飲み込まれそうになる。

思えば樹は、私がいなくても生きていける人なのだ。一人でいることを好み、他人から干渉されることを好まない。女の手を借りなくても大概のことは自分でこなす。そういう彼だからこそ私は惹かれたけれど、同時に彼が私を求める理由が何一つないということにも気がついてしまう。

樹と出会ったばかりの頃は、サイレンスのファンは今よりももっと少なかった。ましてやバンドにおいて、ステージの後方にいるドラマーよりも、動き回り目立つボーカルやギタリストに人気が傾くのはよくある話だ。あの頃、樹のファンで彼に話しかけるような度胸のあるやつは私ぐらいだった。サイレンスのメンバーと面識のある影州と親しかったのもある。だからこそ樹にとって、私はほんの少しだけ特別なファンでいられた。

あの頃の気持ちのまま、私は彼のことが今でも好きだ。だけど樹はどうだろう。樹のファンは今や増え、話しかけられることや愛を伝えられることは少なくない。顔や名前を覚えたファンだっている、つまり彼にとっての特別は今や私だけじゃない。

気がついてみれば簡単なこと。私はいつ捨てられたっておかしくない状況だったのだ。惰性で今までやってこれただけ、煩わしくなったら捨てられるだけの理由は山ほどある。だからといって、理解はできても納得はできなかった。

私は今、どうしたいんだろう。どうすればいいんだろう。考えすぎてうまくまとまらない。別れるべきだという事実と別れたくないという気持ちで板挟みになって、押し潰されてしまいそうだった。

そういえば。
彼と付き合う前にも、こんな風に一人で悩み続けて苦しくなることがあった。

そのときの影州の不器用な優しさと、何事もなかったように笑う無邪気さを思い出す。
紅印の慈愛に満ちた手のひらと、これ以上なく励まされた言葉や優しい声を思い出す。泣きながら食べたおいしいご飯の味を思い出す。

一人で抱え込まなくても私には、全て知っている人がいる。話を聞いてくれる人がいる。居ても立ってもいられなくなって携帯を手に取った。



「お久しぶりでーす!なまえさん俺のこと覚えてますかー!?」

こんなにキャラの濃い人を忘れろという方が無理な話で、頷きつつ手を振ると元気な彼、宝町くんは嬉しそうに歯を見せて笑った。
この店に赴くのは久しぶりだった。以前は影州に連れられるがまま訪れたので場所をよく覚えていなかったけれど、開店して間もない夕方時に来てみると繁華街の外れにある一際静かな立地だった。ここなら誰かに話を聞かれる心配もなさそうだ。

「うるせーよ。おい、いつものとこ空いてんだろな」
「聞いてますよー!秘密のお話するんですよね!空けてます!」
「お前なあ!」

影州と宝町くんのやり取りを聞いていると、思い詰めていた気持ちが少しずつ解れていく。一番奥の席に通され腰を下ろすと、途端に疲れが押し寄せてきた。

「で、今日はどうしたの?なんとなく飲みたくて呼んだってわけでもなさそうじゃない」

運ばれてきた生ビールに口をつけると、紅印は早速様子を窺ってきた。投げられたストレートな質問に思わず口をつぐむ。とは言え閉口していても話は進まないので、景気づけにジョッキの中身を一気に飲み干し切り出した。

「……別れた方がいいのかなって、悩んでる」
「ハア!?」
「ちょっと、影州うるさいわよ」
「わりぃ、つい」
「で?なんでそう思ったの?」

酒の勢いもあったのかもしれないけれど、先程まで言い淀んでいたのが嘘みたいに私の口はよくもまあ動いた。バンドに疎い知人にもサイレンスの存在が知れ渡っていたことや、バンドマンの恋人である重圧や秘密を抱え続けることが苦しくなってきたこと、そして。

「もし私が樹と付き合ってなくて今もただのファンだったとして、樹に彼女がいるって知ったらやっぱりショックだと思うし彼女が普通にライブに来てるファンだって知ったらなんかもう応援する気なくなると思う」

偽善に聞こえるかもしれない。だけどこれは本心だ。

ファンとバンドマンは本来、その関係を逸してはならない。応援する側とされる側、それ以上でも以下でもない。もしも誰か一人を特別にしてしまったら、その他の大勢はどうなる。好きだという気持ちは同じなのに、軽視された気になってしまうのがファン心理というものだ。もちろん樹にそんなつもりはない。それはわかっている。樹は他のファンのことも大事にしているし、最近では演奏中も普通に客席に目を向けている。話しかけられれば普通に答えるし、好きだと言ってくれた子にはドラムスティックを狙い投げするくらいのファンサービスはするようになった。
だけどそれとこれとは話が別だ。

「隠し通せばいいだけの話じゃね?」
「だからそういう話じゃないんだってば……」
「意味わかんねー、好きなら周りとかどうでもいいだろ」
「……私だってそう思ってたよ」
「まあ、アタシは言いたいことわかるけど」
「わかんのかよ」
「秘密の恋の方が燃えるってことでしょう?」
「いやお前それわかってるうちに入んねえから」
「でもなまえちゃん、大事なこと忘れてない?」

紅印の言葉に思わず押し黙ると、紅印はわざとらしく頬杖をついて溜め息を吐いた。

「アナタが一人で悩んでる今を彼はどう思ってるのかしらね」

紅印の一言に、私はなにか大事なことを思い出した。
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