私の平穏な幸せが脅かされそうになったのは、なんでもない日常の中でだった。

講義の合間に友人数名と食堂にいたときのことだ。そのうちの一人がふと、思い出したように私に訊ねてきた。

「そういやなまえってバンド好きだったよね?地元のバンドとかも詳しい?」

何気ない、本当に何気ない会話だった。何気ない会話の、はずだった。

「まあぼちぼちってとこかな」
「じゃあさ、サイレンスって知ってる?」

私は手にしていた携帯を落としそうになった。今まさに、昼休憩だという樹からの連絡に返信していたところだったので動揺した。
どちらかといえば流行りのポップスを好み、バンドには疎いと思っていた友人の口から出るバンド名として、地元だけで活動するサイレンスはあまりにも想像からかけ離れていた。動揺を悟られぬよう、何事もなかったかのように努めて振る舞う。

「……コアなとこ突くね」
「すごい、やっぱり知ってるんだ。友達が最近ハマっててさ」

サイレンスはライブの回数を重ねる度に、徐々に動員を増やしていた。開場時間に遅れて受付を済ますと、バンド名の書いたボックスにどれだけチケットの半券が入っているかで各バンドの動員数はおおよそわかってしまう。ここのところサイレンスは、ほとんどのイベントの動員数で他の追随を許していない。

ともなれば当然、地元にいる以上知人が知っていてもおかしくはなくなってくるのだ。

「曲もかっこいいけどみんなイケメンなんでしょ?」
「まあ、そうだね」
「私の友達も昔からバンド好きなんだけど、イケメンのバンドマンはどうしても女の影が見えるのにサイレンスはそれがないから安心して見てられるって言ってたんだよね」

今時珍しいよね、と微笑む彼女に私は曖昧に頷いた。先程危うく落としかけた携帯を、更にぐっと握り込む。樹に返そうとした言葉たちが、画面の中でまだかまだかと電波に乗りたがっていた。

バンドマンを応援する女が皆すべからく恋人になりたがるわけではない。私だってそうだった。サイレンスを知り始めたばかりの頃は、ドラムを叩く樹を見ることができたらそれで満足だった。ライブハウスの外ですれ違って、「お疲れ様です」というたった一言を伝えられただけで満たされるくらい、それくらいあの頃の私は純粋な彼らのファンだった。

サイレンスを知る前だって、他に好きなバンドがあった。長く応援していたバンドもある。だけど彼女にしてほしいなんて思ったことは一度たりともない。ただ彼らの曲が聞けたら、彼らの演奏している姿を見ることができたら、それだけで幸せだった。

だからといって恋人の噂が出る度になにも思わなかったわけではない。ステージに立つ男の私生活が、熱愛という生々しさをもって見え隠れしたとき、なぜか胸は痛むものだ。それが悲しいことにファンの心理で、理性で解決できるものでもない。だから彼女の友人が言っていることがわからないわけではないけれど。

そうだとしても。

私に、彼女の友人の言葉に頷く資格はどこにあるのだろう。
ふとそんなことを思った。

今まさにバンドマンである樹と付き合っている私が、ファンとしてある意味仕方のない感情について同意する資格はたぶんない。バレないように隠れて付き合っているからといって、樹のことを好きな他のファンを裏切っている事実に変わりはないし、樹にファンを裏切らせているのは他でもない私だ。

だけど隠れて付き合っている以上、バンドマンの恋人として反論する資格も私にはない。そもそもファンとしての気持ちもわかる私には反論のしようがない。それに付き合っていることを公にしたところでもっとファンを傷つけるだけだ。
つまり、せっかく動員を伸ばしているサイレンスにとって私の存在はいつ爆発してもおかしくない対人地雷のようなものなのだ。もしも爆発したらひとたまりもない。そして爆発するときは、私と樹の関係が誰かに知られてしまうときだ。地元というのは実に狭い。バレない可能性がないだなんて、決して言い切ることはできない。

私が確かに感じていた幸せというものは、こんなにも危険なものだったのだ。いつ割れてもおかしくない氷の上に成り立っていて、もしも爆発したら多方面に迷惑を撒き散らすとんでもない厄介なものだ。しかもそれは、サイレンスというバンドが大きくなるにつれ巻き込む人間の数を増やしていくだけの恐ろしい爆発物に育っていく。

私は、こんな幸せを抱えていてもいいのだろうか。いつ爆発するかわからない危険な幸せを、私だけではなく樹にも抱えさせている。

私は、樹とこのまま付き合っていてもいいのだろうか。

足元で、薄い氷が割れていくような錯覚を覚えた。
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