「……おかえり」
ぼんやり。虚ろな目で俺を呆然と見上げていた彼女は、やがてふいっと視線を逸らした。
起きてるなまえに会うのは随分久しぶりだな、とか呑気にも思う。髪伸びたなとかやっぱり痩せたな、とかそういうこと。呑気に思っていたが、妙な違和感。彼女の肩に手を置くと、もう一度視線が絡まる。彼女の目は、不安で揺れていた。
「(なんかあった?)」
訊ねるも、彼女は口をつぐむばかりで息を飲む。答えはしない、けどその瞳がなにかを伝えようとしている。
原因は自分にあるのでは、そうも思った。だから言いたがらないのだろうと。だからといってここで引き下がるのは、違うと思った。
俺は一度でも彼女とまともに向き合ったことがあっただろうか。ただなんとなくで今までやってこれた、それに甘んじてなんとかここまでやってきた、その結果が今だ。これでいいとは思わない、こんな結末でいいとは思わない。彼女の優しさに甘んじて文句のひとつも言わせないで、そんなのを男の甲斐性というならそれは違う。別れを決意させてしまうくらいならそんな甲斐性なくてもいいとすら思う。
「(話してくれなきゃ、わからない)」
話す時間を作らずにいたのは自分だ。だからこそ今、もしなまえの不満が爆発したとしても仕方ない。その延長で別れ話になったとしても、受け入れるつもりではいる。とにかくまず話をしなければなにも始まらないと思った。しばらくの沈黙のあと、彼女は重い口を開いた。
「樹がもう帰ってこないんじゃないかと思った」
その言葉に、思わず面食らう。
仕事柄、危険を伴う任務がないわけではない。国の防衛、災害派遣、有事に備えて過酷な状況下を想定したあらゆる訓練。そのどれもが死に直結しているわけではないにせよ、生半可な気持ちで務まる仕事でないのは確かだ。現に体や心に異常をきたす隊員がいないわけではない。
「(心配だった?)」
それとも、“もう帰ってこなきゃいいのに”って思ってた?
そんなこと聞けるわけもなく、ただ彼女の言葉を待つ。
「そういう意味じゃなくて、なんだろう。私と顔合わせるのいやなのかなって」
慎重に選ぶように続いた言葉は、やけに重みがあった。確かな質量をもってして俺の後頭部を殴り付けたような錯覚を覚えるほど。
「不安だった」
目を伏せた彼女はそのまま両手で顔を覆って「ごめん忘れて」と小さく呟いた。
不安だったのは自分の方だ。このまま愛想を尽かされても文句は言えない状況にしたのは自分の方だ。
考えたこともなかった。自分ばかりが不安なわけがなくて、俺が不安になるのと同じくらい、あるいはそれ以上の不安を彼女も抱いているのかもしれないということを。だけど同時に思う。その不安は、今も彼女に想われているという証に他ならないのではないかと。
依然顔を塞ぎ込むなまえの肩を抱き寄せた。彼女の小さな手のひらが背中に回ったのを感じて髪を撫でる。今にも泣き出しそうだった彼女の呼吸が安定していくのを腕の中で感じていた。
こんな夜はいつぶりだろう。彼女の体温やにおいを存分に感じて目を閉じる。どこにも行かない、行くわけがない。帰る場所なんて、帰りたい場所なんて彼女のところしかないのだと伝わればいいと思った。
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