玄関の戸が開く音で目が覚めた。誰が帰ってきたのかなんて、そんなのは明白で。
いつの間にか眠ってた。眠ろうとして眠ったわけでもない。テレビはかろうじて消していたけれど電気は点けっぱなし、ローテーブルに突っ伏して眠っていたから身体中が痛い。アルコールの抜けていない頭はぼんやりしているくせに「今起きたら確実に怒られるな」なんてずる賢く働いて、そのまま狸寝入りを決め込んだ。
静かな足音が近づいてくる。煌々とした電気の下でだらしなく眠る恋人の姿と、傍らにある500mlの酒缶たちを見てきっと呆れているんだろうな、なんて思わずにいられない。静かで深い溜め息を吐いたあと、缶の中身が残っていないか振って確認している音がする。酒くさい缶たちは樹に拾い上げられて、台所まで運び込またのち洗って潰されているようだった。そういえば結局ハイボール飲みきれなかったなあとか思いながら、ほんの少しだけ泣きたくなった。
「先に寝てていい」なんて言われても彼氏の帰りを待っていたい乙女心がある。だけど「次に顔を合わせたら今度こそ別れ話をされるんじゃないか」って、ついくだらない邪推をして酒に溺れる自分もいる。私は今、いろんな意味で樹と向き合えずにいる。
一緒に暮らして二年、樹の帰りが遅くなることが増えた。遠征で家に帰ってこない日すら増えた。私が起きる頃にはもう樹はいなくて「本当はこの家に帰ってきていないだけなんじゃないか」って不安になる度に毎朝自己嫌悪に陥る。だって樹が帰ってきたくなる理由を私は私自身に見出だせない。
酒浸りで電気を消して寝るという当たり前のことすらできないだらしない自分だ。今だって素直に体を起こして、素直に怒られたらいいのにそれもしない。こういう浅ましい自分が本当にいやだと思う。樹はもっといやだと思う。疲れて帰ってきて、女の世話なんてしたくないはずだ。ただでさえ精神的に自立できている樹にとって私なんてただのお荷物で、いつ捨てられたっておかしくない。こういう小さな後ろめたさがどんどん積み重なって、ついには顔を合わせることすら怖くなってしまった。
とんとん、と控えめに肩を叩かれる。頭は冴えているくせに引っ込みがつかなくてぎゅっと目を瞑る。本当は今すぐにでも目を開けて「おかえり」って言いたいのに、強がりな私にはそれすら難しい。
煩わしいならこんな女、さっさと捨てて楽になってもいいんだよ。
樹は優しいからそれもしないんだろうな、それともただの惰性か。別れが見えてきているカップルでいる方がよっぽどツラいのにな、なんて別れたくもないくせにそんなことを思う。タイミングよく再び降ってきた溜め息でその思いは実感を伴って更に加速する。こんな女さっさと捨てたいと思ってるのは樹の方か。座ったまま寝てたからお尻が痛い。立ち上がって全身を伸ばしたのち早くふかふかのお布団で眠りたいけど樹が寝静まるまで待とうかな、なんて思っていると肩と膝の裏に手を添えられてそのまま抱き上げられた。
私を起こさないよう配慮しているのだろう、ゆっくり歩く樹の温度を感じている。寝ぼけたふりをして彼の肩に頭を預けると、前より胸板が厚くなっているのがわかった。最後にこの腕に抱かれたときよりも今はもっと逞しくなっているんだろう。ろくに顔を合わせていない間だって、彼は彼の時間を生きている。その時間の中にもう私はいない。
ゆっくりシーツに下ろされる。ベッドに腰を下ろしたらしい樹の重みで沈むマットレスがやけに心地いい。樹は今、どんな顔で私を見下ろしているんだろう。
どんな顔で私の髪を撫でたんだろう。
呆れてたのかな、それとも「別れるとも知らないでアホ面晒して寝やがって」とか思ったのかな。それともまだ、私のことを好きでいてくれているのかな。
樹がシャワーを浴びている音を聞きながら、閉じた瞼から涙がこぼれてきた。私にはもう、樹がなにを考えているのかわからなかった。
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