夜の真ん中で取り残されてしまったような絶望と、それに矛盾する充足を感じていた。切れそうな街頭は神鷹のシルエットを曖昧に照らしたり揺らしたり。焦がれた神鷹が隣にいるというのに気持ちは浮かない。
最初部屋に招いたとき、神鷹は困ったような曖昧な顔をした。また誰かに見つかったらどうしよう、という私の心配よりも一人暮らしの女の家に上がることに躊躇いを覚えたのだろう。そんな男を、匿名で好き勝手言った姿も見えない人間に改めて怒りを覚える。
近くに公園があるからそこで話そうと提案すると神鷹は納得した。慕っている人物と並んで座っているなんて夢みたいだけど、今はそれよりも気まずさが勝る。

「(紅印から聞いた)」

先に切り出したのは神鷹だった。影州や紅印は、客同士のいざこざを本人達が見ていないところで見ていたし、或いは紅印に至っては相談を持ちかけられていたかもしれない。彼には女の気持ちが痛いほどわかる。

「(ごめん)」

手話を添えて頭を下げた神鷹にぎょっとした。なぜ、彼が謝るのか。

「なんで、全部私が、」
「(違う)」

神鷹は静かに首を横に振る。意味がわからず眉間に皺を寄せていると、反対に神鷹は眉を下げた。

「(軽率なことをしたと思ってる。紅印にも絞られた)」

自嘲するかのように小さく笑った。そしてこの神鷹が紅印に絞られているところを想像して私も笑いそうになる。紅印はいつも優しいし穏やかだけれど、言うことはきちんと言う人だ。だからこそ信頼が置ける。

「(影州も心配してる)」
「あいつはどうでもいいけど」

私の言葉に神鷹が笑ったのが息遣いでわかった。彼も、こうして笑うのか。こんな状況で些細なことに喜んでしまうなんて場違いにも程があるけどそう思った。

「でも、私のせいで神鷹くんのこと好きな人減ったかもしれない」

震える声で、この一連の騒ぎで最大の失態を口にする。神鷹は首を傾げていた。

「女ってさ、ほんと狡くて。私も、私がいなくなったら神鷹くん私のこと忘れて他の子見るんだろうなって思うとつらかった」

自分でもなんでこんなことを言っているのかわからなかった。だけど一度吐き出した言葉はもう戻ってはくれない。

「(やきもち?)」

控えめに訊ねた神鷹に言葉が詰まる。無言で小さく頷くとそれきり神鷹はなにも聞いてこなかった。

鬱陶しいと、思われただろうな。

付き合ってもいないただのバンドマンとファンの関係で、嫉妬は最もいらない感情だと私は思う。神鷹と出会う前の私はそうだった。ドリンクカウンターで女達の渦巻く嫉妬を高みの見物のように眺めては、ステージに立つくだんの男達を見て彼らは近いうちファン同士のごたごたで廃れていくのだと哀れにも思い、そしてそこに巻き込まれるのはごめんだしそんなバンドには興味すら沸いてこなかった。しかし今、私自身がトリガーとなっている。
サイレンスにも、そして神鷹にもこれからもステージに立ち続けてほしいと願うくせに、これでは心から応援していると言えるのか自分でもわけがわからない。
そしてそのとき、見て見ぬ振りを貫いてきた自分の気持ちに自覚せざるを得なくなる。

私は神鷹を一人の男として見ている。

認めるわけにいかなかったその感情は、飲み込んでみると存外しっくりと腑に落ちた。だけどその瞬間から、私はこの男を追い掛けてはいけないのだという現実に直面する。神鷹も、バンドの将来を食い潰しかねないファンならいくら動員であっても願い下げだろう。
そう、思っていたのに。

「(嫌われたかと思ってた)」

その表情は、安心しているような、なんとも言えない顔をしていた。思ってもみないことを言い出した神鷹に息を飲む。

「(またライブ来てほしい)」
「でも、私がいたらバンドがだめになるかもしれないんだよ?」
「(そうならないようにする)」

だめ?と小首を傾げて訊ねる神鷹が子供のように見えて、その仕草の可愛らしさに息を仕留められた。なにを考えているかわからないガラス玉のような目は最初は怖さすら感じたものの、例えばふとしたときのこういう仕草だったり僅かな表情の変化がより引き立つから困る。

「……客席見ないでね」
「……。」
「そんな目で見てもだめだよ」

なんなんだ、この可愛らしい男は。どうしてそんなことで駄々を捏ねるようなことをするのか。

「大丈夫だから」

安心させるように言葉を紡ぐ。それは自分自身にも言い聞かせるようだった。

「ちゃんと、いつもいるから」

神鷹の目をまっすぐ見つめて言うと、彼は目を丸くした。その言葉を噛み砕くのに幾分時間がかかったらしい。言葉の意味を理解すると、納得したように目を閉じた。

取り残された夜の真ん中で、二人きり。なににも言い難い居心地のよさを、神鷹の隣で確かに感じた。それだけで幸せだと思えるくらい私は神鷹で満たされている。満たされるほど、神鷹と出会ってからの私の頭には神鷹ばかりなのだと思い知らされた。
敬語も敬称も、気づいたらどこかへ行ってしまったくらいには私と神鷹の距離は近づいた夜だった。
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