それからしばらくしてサイレンスはCDを作った。ショップで売られるようなものではないけれど、ライブハウスの片隅の物販に交じるそのCDを私は発売してすぐに買おうと目論んでいた。物販に立っていたのは紅印さんだ。

「あらなまえちゃん、あなたが第一号よ」

品よく笑う紅印さんは本当に影州の兄なのか疑うほど物腰が柔らかい。顔立ちは確かに似ているけれど。

「え、第一号?ほんと?」
「そうよ、神鷹が聞いたら喜ぶかもね」

影州のやつ私が彼のこと気になってるのバラしたな、とカウンターに目を向けるも女の子とよろしくやっている。あとで文句のひとつでも言ってやろうと思う。

「変な意味じゃないからね」
「はいはい、またね」

ライブが終わって一目散に自宅へ向かう。早くそのCDを聴きたかった。
勿論、ライブハウスで彼らの演奏を聴くのが一番好きだ。生の音は嘘を吐かない。楽器の細かな息遣いや遠慮のない爆音が好きだし、神鷹がドラムを叩いているところを見るのも好き。その日によって声の調子が僅かに変わる雀や、日々新しい試みで機材や音響を変える司馬のギターも好きなのだ。
だけど彼らだって毎日ライブをやるわけではないし、都合によっては一ヶ月ライブが空くこともある。本当は毎日だって聴きたいし、好きなバンドの音がこうして形になるのは素直に嬉しい。しばらくサイレンスの予定が空いていた期間、私は毎日飽きることなく聴いていた。




久しぶりにライブハウスへ赴く。毎日聴いていたとはいえ、こうしてステージ上の神鷹を見れるのはやはり別格だと思った。CDで聴くのもいいけれど、やはり生の音が一番いい。
久しぶりのライブを噛み締めて、サイレンスが終わってライブハウスを出ると神鷹が機材車のドアを開けて腰掛けたまま黄昏ているのが見えた。なんとなくその様子が可愛らしくて思わず見つめていると、私に気付いた神鷹が会釈してくる。それだけのことが、こんなに嬉しい。「お疲れ様です」と声を掛けると、ちょいちょいっと手招かれた。不思議に思い近付くと「ちょっと待ってて」という旨を手話で伝えてきた。

「え?」

思わず聞き返すと、困ったように眉を下げる神鷹。どうしたんだろうと困惑していると、なにやら携帯を取り出した。
ああ、そうか。私が手話の勉強をしたのを彼は知らないのか。暗がりで携帯に視線を落とす彼の伏せた瞼を眺めながらふと気づく。もしかして伝わっていないと思って携帯で文字を打ち込んでいるのかもしれない。

「あ、あの、」

話し掛けるとちらりと視線を合わせる神鷹。いくら彼の背が高くても、後部座席から外へ足を投げ出して座る彼とでは私の方が見下ろすことになる。その上目遣いにくらっと来そうになったものの気を持ち直した。

「大丈夫です、伝わってます」

そう言うと目を見開いた彼に気恥ずかしくなる。少し前まで手話がわからなくて間接的にやり取りをしていたのに、神鷹のために勉強したと言っているようなものだ。それは事実なのだけれど、その必死さに引いていないかと彼の様子を伺うとマスクから露出した目元が赤みを差していた。え、うそ。照れてる?と私の方がまた恥ずかしくなる。
なんとも言えない空気が私と神鷹の間を流れる。恥ずかしくて死にそうなのに嬉しくて、だけど居心地がよい。神鷹は?どう思っているんだろう。
額と目元を大きな手で隠してしまった彼の表情は本格的にわからなくて、彼から見えないのをいいことにその白い繊細な手やさらりと流れる柔らかい色の髪をじっと観察する。なんでこんなに綺麗なんだろう、と密かに息を飲んでいると突然顔を上げて私と目を合わせた。今度はそのまっすぐな瞳に硬直していると、やがて彼は紡ぎ出す。

「(うれしい)」

照れたように目を逸らしたけれど、その目は嬉しそうに細められていて、見たことのない表情に胸が高鳴った。反則だ、こんなの。ずるい。

「引いてないですか?」

と聞くと不思議そうに首を傾げるその仕草の可愛さにまた目眩がした。気難しいと思った神鷹だけど、そんなこともないようだ。

「手話とか勉強して、必死だなこの女って」

ここで肯定されたら立ち直れないくせに、そしてこんなこと聞いたって神鷹が困るに決まっているのに、ついそんなことを聞いてしまった。私の声は自分でもわかるくらい震えていたけれど、神鷹は静かに首を横に振った。

「(話したかったから、うれしい)」

やがて続いた手話に胸が締め付けられる。だめだ、これ以上この人と一緒にいたらときめきで窒息してしまう。そんな錯覚を覚えたけれど、折角話せるようになったんだ。伝えたいことを、話してみたいと思った。

「あの、CD聴きました。毎日聴いてるくらい、ほんと好きで」

こんなに必死で、本当に彼が引いてしまわないか心配だったけれど熱にうかされたみたいに勝手に言葉が出てくる。しどろもどろな私の言葉を彼はうん、うん、と頷きながら聞いてくれていた。

「特に二曲目の神鷹さんのドラムが、好きです」

それはライブでも思っていたこと。変調なリズムを巧みに操る彼のドラム捌きは、見ているときは勿論聴いているだけできゅうっと胸が締め付けられる。私が一番、好きな曲。
彼は柔らかく微笑んでいるように見えた。

「(俺も)」

優しく目を合わせる神鷹が紡ぐ手話を見逃さないようにじっと見つめる。勉強したとは言ってもまだまだ手話は不慣れだし、それに。彼が伝えたい言葉も彼のことも、一瞬たりとも見逃したくないと思った。

「(二曲目が、一番好き)」

読み取れたか心配そうにこちらを伺う神鷹の瞳に、思わず吸い込まれそうになった。そして見つけた共通点。嬉しさに頬が綻ぶのが自分でもわかった。

「イントロのバスドラもいいんだけど、サビ前の変調もかっこよくて!」
「(そこ叩くの、たのしい)」

うんうんと大きく頷くと彼も優しげに目を細めた。彼と会話しているなんて夢のようだと思った。
しばらく二人で話していると、慌ててやって来た雀と影州が目を丸くした。

「え、なにお前ら」

突然現れた見知った人物の登場に、ふとさっきまで二人きりだったことに今更気づいて恥ずかしくなる。一人で赤面していると雀が困惑したように呟いた。

「通訳必要、神鷹呼出」
「え?」
「神鷹からお前と話したいから通訳してくれって俺ら呼び出されたって言ってんだよ、あーあ、俺もうちょいあの子と話したかったなー」

私が聞き返したのは、雀の言葉の意味がわからなかったからじゃなくて。
さっき神鷹が携帯でなにかを打ち込んでいたのは、私にわかるように言葉を打ち込んだからじゃなくて、この二人を呼び出していたのかと知って微笑ましくなった。つい笑ってしまうと、ばつが悪いのか私と目を合わせなくなった代わりにバラされた恥ずかしさから二人を睨んでいる。

「なんだよ、ほんとのことじゃねえか」
「(本人に言わなくていい)」

むすっとしている神鷹の表情がおかしくて、彼はこんなにも表情豊かなのだと知って眺めていると、今度は矛先が私に向いた。

「よかったななまえ、神鷹のために手話勉強した甲斐あったじゃねえか」

けらけらと笑う影州がとんだ爆弾発言を投下してくれたお陰で、今度は私が固まる番になる。ばっとこちらを向いた神鷹の目を見れない。気まずくて、影州の脇腹を結構本気で殴る。

「いって!なんなのお前ら、俺様ほんとのことしか言ってなくね!?」
「うるさい、言わなくていいこともあんの」

手話を勉強したとは神鷹に言ったけれど、それが彼のためだなんてさすがに言えなかった。それとなくは漏らしたけれど、明言はしなかったというのにこの男。
神鷹をちらりと盗み見るとマスクで覆った更にその上から口元を手で隠している。
いつの間にやらやって来て機材を片付けている司馬もその様子をにこにこと眺めていた。なにこの空気。恥ずかしいったらない。
照れているのを悟られないようしばらく影州と言い合いしていると、くいっと服を引っ張られ振り向く。神鷹がまっすぐに私を見つめていた。

「(ありがとう)」

この前と、同じ手話。この前はわからなかった手話が今日はわかる。その事実を噛み締めるように私も大きく頷いた。


帰り道、神鷹と話したことを何度も何度でも思い出していた。話せた事実が嬉しかった。初めて見たたくさんの表情が嬉しかった。
言うなればこのとき私は有頂天だったのだと思う。この界隈に渦巻く危険性を、影州の警告を、なにもかも忘れてしまうほどには、有頂天だった。
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