それからしばらくライブの予定は空いていた。彼らにも普段の生活がある。それだけのことなのに身近に感じられて少しだけ嬉しく思う。久しぶりにライブハウスへ赴き、ドリンクカウンターに向かった。

「おー久しぶりじゃねえの神鷹がいなきゃライブ来なくなったなまえちゃん?」

嫌味ったらしく言った影州にムッとしつつ鞄を漁る。いつものように灰皿を差し出してきた影州に断ると、影州は目を丸くした。

「煙草やめたから」
「はあ!?お前が!?」
「うん」

鞄から出した手話の本を暗がりで目を凝らして読んでいると影州が絶句しているのがわかった。

「酒は?酒は飲むだろ?飲むよな!?」
「あー……カシスウーロンでいいや」
「はあ!?」

口をあんぐり開けた影州が視界に入ったのでつい眉間に皺が寄るのがわかった。

「なによ」
「会わねえ間にどうしちゃったのお前」
「どうもしないよ、さっきからなに」
「不摂生の塊っつうか体に悪いもんでできてるお前からジョッキと煙草取り上げたらなにが残るんだよ!」
「一発殴らせてもらっていいかな」

つい拳を振り上げるとカウンターの隅に寄った影州。ひどい言われようなのにこの仕打ち。行き場のないこの怒りをどうしろと。
額に青筋を浮かべながら影州を睨んでいると、やがてなにかに気づいたように悪戯な笑みを浮かべた。

「さては神鷹のためとか」
「はあ!?別にそんなんじゃないし」
「じゃあその手話の本なんだよ」

思わず声を荒げ、更に続いた影州の問いに咄嗟に言葉が出なくて黙ってしまった。これでは図星と言っているようなものである。

「うっわー、健気だなあなまえちゃん」
「うるさい、早くカシスウーロン作ってよ」
「お前がそんな健気だとは思わなかったわ」
「オーナー、影州サボってるよー」
「馬鹿、うっせえよ」

オーナーに告げ口したはいいものの、いつもの戯れ合いかと言わんばかりに微笑み返される。仮にもスタッフがサボってると言われてその対応はひどいと思う。

「お前本気じゃん」
「ねえまだその話すんの?」
「だってよー、お前いーっつもボケーっと見てるだけだし男の話とか聞いたことねえし気になんだよ」

悔しいけれど影州の言う通りである。彼と、彼らと出会うまでは、こんなじゃなかった。ただ純粋に音を聴きに来ていただけ。なのに神鷹と出会ってから、あとからあとから欲望が膨れ上がる。あまりいい傾向だとは言えない。相手はアマチュアと言えどバンドマンだ。手の届く人じゃない。

「別にそんなんじゃないからね」
「はいはい。じゃ、幕下ろしてくっかな」

次お前の愛しい神鷹だぞと耳打ちして去っていく影州の背中を思いっきり殴ってみる。悔しいことに熱を持つ頬と、逸る鼓動は嘘を吐けない。それでも自分の気持ちは見ないふりをしていたかった。

影州が幕を下ろしてから出てきた神鷹に、少しばかりの歓声が上がる。なんだかおもしろくない。なんの嫉妬だよと自嘲しつつ、彼を今日も見つめていると。

この日、少なくとも私が知っている中だけど彼は初めて客席を見た。誰かを探しているようだった。今日も知り合いが来ているのだろうか。視線をさまよわせる彼をぼんやり眺めていると、ふと私とかち合った視線が止まる。そのまま数秒間目が合ったまま、雀さんが出てきたことで彼はドラムに視線を落とした。

え、うそ。今、目合った?

どんだけおめでたい頭をしているんだと罵られてもいい。だけど客席なんて見ない彼が、この日初めて客席をぐるりと眺めるのを見た。それも、私とあんな会話をしたあとで初めてのライブで。
ステージとカウンター、その数メートル越しにまっすぐ見つめてきた彼の澄んだ瞳が瞼にこびりついて離れない。音が全く頭に入ってこないほど。もう今はドラムだけを見ている神鷹から私は目が離せなかった。

捌けるときも目が合うんじゃないかと期待したけれど、彼はそのまままっすぐステージから捌けていった。落とした照明がまた明るくなり、転換中のBGMが流れてすぐに影州に向き直る。

「影州……見た?」
「あー、あの子? 俺様超タイプ。あとで連絡先聞こ」
「そうじゃなくて! 神鷹くん、こっち見た」

口をパクパクさせながら言うと影州も口をあんぐりと開けた。

「なに言ってんだお前。あいつだって男なんだから好きって言われた女のことくらい見るだろ」
「でも今まで客席なんて見てなかった!」
「知らねーよそんなもん」

呆れながら煙草に手を伸ばした影州が「お前も吸う?」なんて誘ってきた。一瞬体が煙を求めたけれど、寸でのところで首を横に振った。

「だよなー?ちょっと脈ありって勘違いしたら吸わねえよなー?神鷹煙草嫌いそうだし」
「だからそんなんじゃないってば!」

私の言葉を無視して煙草を吸いに奥に引っ込んだ影州の後ろ姿を睨み付ける。だけど本当は、影州の言葉が少しだけ痛かった。自分でも呆れているんだ本当は。だってこんな勝算のない恋、今時中学生だってしない。なのにステージ上の人と目が合ったとか子供のように勘違いしてはしゃいで、酒も煙草も控えて手話まで勉強して。なんのため?そんなの、影州の言う通りで。だけど本当は彼のためなんて押し付けがましいものでもない。そうせずにいられなくて、そうしたいと思った私の自己満足に過ぎない。
見返りなんて求めてない。
その一方的な愛こそが一番押し付けがましいんだってことに気がつかないほど私も子供じゃないけれど、少しでいいから夢を見させてくれた今日の神鷹を思うとそれだけで全て報われたと思った。
こんな不毛な恋に燃えた私を、煙草の火種のように踏み消してくれたらいいと少しだけ恋しくなった紫煙を思い出した。
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