扉の向こうに広がるのは、どこまでも食い尽くす闇と刹那の光、そして、爆音。その空気は気だるくて、煙とアルコールと人工の光が闇を包んでいた。

きらびやかな場所も騒がしい場所もあまり好きではない。それでもステージに立ち続けるのはドラムの楽しさを見出だしてしまったからに他ならない。

本業の片手間とはいえコツを掴むと上達は早かった。ドラムに触れたのが高校三年、少し遅い出会いだったのかもしれないが、そこは持ち前の器用さでなんとかカバーできた。

自分達のバンドの人気が出ていることは知っていた。客席を見ずとも、自分達見たさにステージ前に集まっている客が増えていることはなんとなくわかる。そして自分達を呼ぶ声。人見知りも相俟って声援に答えることはなかったが、客との距離を縮める必要などなかった。何故なら自分には本業がある。司馬も霧咲も学校やバイトがある。所詮これは趣味に過ぎないのだ。

しかしそれはある日を境に少しずつ崩れていくこととなる。出番が終わると客がまだライブハウス内にいるうちに機材を片付けなるべく早めにその場をあとにする。いつものことだった。ステージを降りて俺は運命と出会った。

着替えを早々と終え、裏口から少し離れた駐車スペースまで機材を運ぶ。ライブハウスの前に差し掛かると入口から出てきた女とすれ違った。

自分達のあとのバンドが演奏し終えたあとだ。きっとそのバンドのファンだったのだろう。彼らの出番が終わり早々と出てくる様な人、ある意味熱狂的なファンと言える。状況的に誰しもそう思うだろう。しかしその女はすれ違って随分してから声を掛けてきた。

「あ、あの!」

振り向くと、体ごとこちらに向き合ってその目は真っ直ぐに俺を見据えている。言葉を促すよう視線を向けると、意を決したように彼女の喉が動く。

「お疲れ様です」

彼女の声は震えていた。距離にして数メートル、まして夜の喧騒とライブハウスから漏れる僅かな音量に掻き消されてもおかしくない。それでもしっかり届いた。

例えば思った通り熱狂的なファンだとして、それが自分達の、自分のファンだとしたならば。

一瞬そんなことが頭を過ったが彼女はそれ以上なにか言うわけでもなく、相変わらず真っ直ぐな視線を寄越してくるばかり。こくりと頷くと口元に淡く喜びを浮かべていた。

暗闇でも目が利くのは一種の職業病であって、彼女の声や表情がやけに目につく自分には気づかないふりをしてその場を後にする。なんとも言えない気恥ずかしさを感じた。彼女の照れがまるで空気を伝って自分に届いてしまったような感覚。そして次のライブで彼女はまたしても声を掛けてきた。たまたま霧咲に用があった影州曰く、俺のファンなのだと言う。それを暴露され、露骨に恥ずかしがる横顔は自分のファンという贔屓目を除いたとしても可愛らしい。

それが俺となまえの出会いだった。

懸念していた事態が起こってしまった。彼女はバンドをやっているときの俺しか知らない。俺には本業があり、そしてバンドが趣味の域を出ないことを知らないのだ。真っ直ぐに向けられる好意に戸惑うくせに、彼女を目で追う自分がいる。更に言うと、もっと話したいと思っていることも。取り返しがつかなくなる前に手を引くべきだと頭ではわかっていた。実際に彼女がライブへ来なくなったとき、これでよかったのだとも思ったが、しかしどうしても引っ掛かるものがあった。いつもドリンクカウンターの前にいて、真剣に音を聞き込んでいた彼女が突然来なくなったことはどうにも不自然だった。

そしてそれを決定づけたのがなまえと特に親しかった影州の何気ない一言だった。

彼女が来なくなって何度目かのライブのあとのことだ。ホールの清掃をしていた影州を訪ねると影州は不自然に目を逸らした。

「なんだよ」
「…………。」
「お前いっつもさっさと帰んのに珍しいな。明日休み?」
「(なまえ来なくなった)」

単刀直入に訊ねるも影州はしばらく白を切るばかり。よくも悪くも彼女は影州には心を開いているようだった。なにも知らないとは言わせない。

「(なまえと影州、仲良かった)」
「いや、あれ仲いいとは言わねえだろ」
「(何か知ってたら教えてほしい)」

切実に懇願する俺に根負けしたのか、影州は小さく溜め息を溢した。その目はホールを見渡していて、物販を回収するバンドに目が止まる。その場で言うのは憚られるほど事態が深刻なことを俺はそのとき初めて悟った。
場所を移し、それから一つ一つ順を追って影州は説明していった。

「あいつから聞いたわけじゃねえからわかんねえけど」

そう前置きをして。

「お前のせいとか思うなよ」

全てを聞き終え影州から目を逸らしたのを見逃さず、影州は瞬時にそう言った。
誰のせいだと思っている。全て俺のせいだと言うのに。

本人から直接聞いたわけでなくともタイミング、影州が彼女を最後に見た日の様子、そしてその日の客の様子、全てを総括すると影州が言ったことが最も辻褄が合う。そこに客観性がなかったとしてもだ。

「(今どこにいる)」
「さすがにそこまで知んねえよ。あいつの連絡先も知らねえし」

そしてそのときふと気づく。
俺達を繋いでいたものは客と演者というそれだけの細いものだったのだと。それを望んでいたのが自分だとしても、今この瞬間どうしても会いたがっているのも自分なのだ。それは一体どういう気持ちで。彼女に後味の悪い思い出を残してしまったことを謝りたいのか、それとも。そのとき、見て見ぬ振りを貫いてきた自分の気持ちに自覚せざるを得なくなる。

俺は彼女を一人の女として見ている。

認めるわけにいかなかったその感情は、飲み込んでみると存外しっくりと腑に落ちた。今までの自分の行動を思い返してみると、出会ったときには既に落ちていたのかもしれない。しかしその瞬間から、俺は彼女と幸せになるわけにいかないのだという現実に直面する。彼女は女子大生、ステージに立つ俺を好きでいてくれていた彼女にはこれからいくらでも出会いはあるだろう。まして自分は自衛隊員、彼女の理想に答えられる自信はない。会いたいときに会ってやれないことも、なにかあったとき優先すべきものは彼女ではなく国のことも、彼女に背負わせるにはあまりにも重荷すぎるものばかりだ。
俺がそんなことを考えていたのを悟ってか、影州はぽつりと紡いだ。

「兄貴ならあいつの家知ってる。送ってったことあるらしいからな」

驚きで顔を上げると、影州は呆れたように顔を歪めていた。

「あいつは素直じゃねえし馬鹿だから、本当はお前に会いてえんじゃねえの」

感謝を伝えようとするも、「掃除の邪魔だ、さっさと行け」と顔を背けられてしまった。
彼女を素直ではないという影州とて素直ではないが恩に着る。紅印に事情を説明し同行を願おうとしたが、紅印は俺を見つけるなり悟ったようだった。

「事情は聞いたみたいね」

知ってたのか、そう思ったのが顔に出たのか紅印は続ける。

「大体ね、アタシ前から言ってたじゃない。女は怖いわよって。なまえちゃんのこと大好きなのはわかるけど守ってあげなきゃだめよ」

まさか自分の気持ちまで悟られていたのかと絶句すると、紅印は彼女の家の所在を教えてくれた。

「あなた一人で行かなきゃ意味ないわ」

遅くなる前に行きなさい。そう背を押され彼女の家まで急ぐ。
今会ってなにを話すというのだろう。謝って許してもらおうと思っているわけではない。それでも会わずにいられなかった。自分の気持ちを認めてしまうと思いの外気持ちは軽い。後先考えない行動だったが、あのときの俺はどうにも黙ってはいられなかったのだ。

そして彼女と話すことに成功し、彼女はまたライブハウスに顔を出すようになった。更に俺達の距離は縮まっていて、週に何度か彼女の家へと赴くようにもなった。一人暮らしの女子大生というのに彼女は「上がって」などと軽々しく言う。あまりの無防備さに何度か苦言を呈し最初は外で会っていたものの、寒くなってきたことも相俟って体の心配をされるようになってしまった。そうして何度目かの逢瀬の末、結局彼女の家に上がるようになる。

彼女に気を遣わせていることはわかっていた。自分がマスクを頑なに外さないことを気にしていることも。こうして二人でいられるだけで、彼女を一つずつ知ることができるだけで幸せだと思い止まる反面、欲に限界はないのだと実感するようになるのにそう時間はかからなかった。しかしそういう関係になる前に話しておかねばならないことが山程あった。自分の身の上のことや傷のこと、バンドが趣味であることに彼女はショックを受けてしまうかもしれない。このまま隠し通せるとは思ってはいない。しかし自分の欲を押し込めてでもしばらくはこのままの関係でいたいと思ってしまう。その理性を狂わせたのがある日の別れ際、彼女の突然の申し出だった。

帰り際にしばらく来れなくなることを伝えようとしたが、それすら頭から抜けてしまうほどのことを彼女が言い出したのだ。おまけに自分から言っておいて照れている。魔が差しただけだったのかもしれない。だけどそうは思いたくなかったのは自分の主観だからなのか。彼女も自分と同じ気持ちだったのだと思いたい。そして彼女の様子を見るに、そう考える方がよっぽど自然である。愛しく思いながら長期遠征へと赴いた。

恋をすると女は綺麗になるという。しかし男の場合はどうだろう。途端に調子がよく感じる。元より体は動く方だったが、いつもより身が軽くなった自分の成績はぐんと伸びた。
埼玉に帰ると昇格のための試験も待っている。若くして部隊を持つことも期待されている。どこの基地でも通用するとお墨付きも貰ったが、もうしばらくは彼女の待つ埼玉にいたいと願う。二ヶ月ほどの演習ももうすぐ終わりを迎える。黙って来てしまったことを謝りたい。そして自分のことを彼女に話すと決めたのだ。そこで関係が終わってしまうことを少し前の自分は恐れた。だがそれは杞憂に過ぎないはずだ。彼女のことを信じてみるのも悪くない、それで裏切られたとて、もう悔いもない。恋をすると男は強気になるらしい。早く彼女に会いたいと願い眠りについた。
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