言葉を伝えることの難しさは、私より神鷹の方がよっぽど知っている。覚悟を決めたのは私も神鷹も同じ。それでもお互い探るように視線を合わせてはすぐに宙をさまよった。
どこから聞いたらいいのかわからなかった。神鷹もどこから話せばいいのかわからないのだろう。
最初から全てを話すには、私達はお互いをよく知りもしないうちから惹かれてしまった。

「私と会わない間、どこに行ってたの」

神鷹はちらりとこちらを見て、またすぐに逸らした。それでもじっと神鷹の目を見つめる。言い逃れはさせない。観念したのか神鷹が伝えた場所は、普段行こうにも行けない場所だった。

「二ヶ月も?」

疑っているわけではなくても訊ねると、神鷹はこくりと頷いた。そして暫く言い淀んだ末に「仕事だった」と続けた。
そのまま彼は自分の身の上を明かしていった。年は私と同じこと。軍隊の養成学校の出身で、今は軍人として戦線に立っていること。そして自分達が高校時代にしてきたこと、それに対して後ろめたく思い、自分が幸せになることに対して疑問を抱くことがあることも。
彼の過去は確かに壮絶なものだったし予想していたものより遥かにえげつなかった。だけど過去は過去でしかない。どれだけ酷いものであろうとも、それだって彼を構築していったものなのだから今の神鷹を愛している私には何ら関係のないことだ。

「それでも私は神鷹くんのこと好きだよ」

これは私の本心に他ならないのに、言葉に出すとどうにも陳腐になってしまう。他にこの気持ちを伝える言葉を生憎私は知り得ない。言葉はいつでも便利な反面、本当に伝わって欲しい想いだけは安っぽくなる。

そのまま神鷹は続けた。バンドは誘われたので趣味でやっていること。そしてこれからもこうして長く帰らないことがあるだろうこと。二度と帰れないこともありえること。だから本当は仲を深めることが怖かったこと。

「(俺じゃなまえを幸せにできない。それでも俺を好きか)」

幸せにして欲しいなんて大それたことは言わない。だけどいつまでも闇の中に閉じ込められた彼のことを幸せにしたいとは思った。私の目を見つめ返す神鷹の瞳は僅かに揺れていた。
幸せになることが怖い反面、本当は。彼は誰よりも幸せに飢えているのではないかとも思う。彼の命はいつでも危険に晒されている。大事な者を置いていなくなる恐怖と、その恐怖ごと包み込む温もりを彼自身無意識に求めているのだと。

本当は神鷹の手を握りたい衝動に駆られる。だけどそれは彼から言葉を奪うこととなる。彼の言葉を紡ぐのは喉じゃない。神鷹との恋には障害がたくさんある。だけどそれが一体なんだというのか。

「私はね、二ヶ月も会えなかったことに怒ってるんじゃないんだよ」

神鷹が人を傷つける人だから怒ってるわけでもない。幸せにしてくれないから怒ってるわけでもない。好きだと言ってくれないから怒ってるわけでもない。

「私になんにも言わないで全部黙ってたことを怒ってるんだよ」

俯いていると神鷹が息を飲んだのがわかった。この意味がどういうことか、皆まで言わずとも伝わっている。そう思った。

「それなのに私が今更どうやって嫌いになれるの」

例え神鷹が私を拒絶しても、どれだけ酷いことを言われてどれだけ酷いことをされたとしても私は彼を心から嫌いになれないのだろう。あんなことを言いつつも、彼が私を好きでいてくれている確信があるなら尚更そうで。拒絶されるのを恐れているのは私も神鷹も同じ。ならば答えは簡単だ。

「もう黙っていなくならないで」

神鷹の膝の上に手を置くと、彼はそっと目を閉じた。伏せた睫毛は男にしては長く、彼の整った顔立ちに陰を作った。神鷹の大きな手がやがて口元のマスクにかかる。それはゆっくりと下ろされていった。私はその一連の動作を見逃すことなく固唾を飲む。

神鷹の肌は白かった。隠された鼻筋や口元もまるで作り物のように美しく、露になった彼の顔立ちの全てが美しかったのだと認識せざるを得ない。ただその頬に、口元に走る生々しい傷跡を除いては。
神は彼のあまりの美しさに嫉妬したのかもしれない。その美しさは罪になりえるほどだった。だからこそ彼に傷を負わせたのかもしれない。そう思うほどに彼の美しい肌や顔立ちには似つかわしくない歪な傷跡だった。だけどそれすらも絵になっている。神ですら彼の美しさには敵わなかったのだと私は思う。
神鷹はこの傷跡を長きに渡って隠してきた。無実の罪を隠してきた。それを今、私に見せてくれている。愛しさが込み上げてくる。その傷跡をそっとなぞると、それが合図だったかのように神鷹の唇が降ってくる。
一度マスク越しに額に触れてきたその唇の柔らかさに酔いしれながら全身で答えていると、神鷹の指が私の指に絡んできた。言葉はもういらないのだとそのとき悟る。必要なのは、待ち焦がれていたその体温だけだ。

一頻り貪った唇を放すと、ガラス玉の瞳が至近距離で私を捉える。彼の瞳に映る私はもっともっととせがんでいる。その愛をねだっている。

「まだ言ってないことがあった」

ふと神鷹の薄い唇が言葉を紡いだので私は大きく肩を揺らした。

「え、喋れたの」

驚きで言葉を口にすると、神鷹は困ったように微笑んだ。その中性的な声のなんと美しいことか。彼を象る全てが美しくて途方に暮れる。

「樹」
「え?」
「俺の名前。覚えて」

いつき。
声に出すと神鷹は嬉しそうに目を細めた。そのまま再び唇が重なり合う。ずるい。全てがずるい。こんなタイミングで名前を教えてくれることもその美しさも。してやられたと思いながらも、幸せと共に甘い夜に溺れた。その腕の中で眠ることは、最後に会ったときに約束したことだ。叶えられた約束は、私と彼の闇が明けたことを意味していた。
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