「よっ、お騒がせ女」

久しぶりにライブハウスの扉を開けた気恥ずかしさを打ち消したのは影州だった。ムッとして睨むと奴はニャハと独特な笑いを漏らす。相変わらず変わってないなあ、なんて思ったり。
視線と噂話は相変わらず付きまとってきた。それをなんとも思っていないように努めて振る舞う。
なんとも思わないわけじゃなかった。だけどどうでもよいとも思う。なんとでも言え。私は。私は、神鷹を見れるなら、なんだっていい。

約束通り神鷹は客席を見なかった。私が来たことで客席を見なくなった神鷹のことは転換中の格好の話題だったようだ。だけど勘違いしている。「神鷹はあの女が嫌いになったから顔を上げなかった」と。誰とも勝負した覚えはないけれど勝ったと思った。

そしてその日から変わったことはもう一つあった。

レポートに向き合っていると玄関のチャイムが鳴る。じんわりと胸が温かくなるのを感じながら向かう。私の家を訪ねる人物はもはや一人しかいないのだけれど、ちゃんと確認するようにと諭されてからは律儀に毎回覗き穴から彼の姿を見てから開けるようになった。

「あれ?今日早いね」

そんな言葉を掛けると神鷹は頷いた。

ライブハウスで言葉を交わせなくなった代わりに、神鷹はあの日ライブの後に家を訪ねてきた。突然の来訪に驚く私に「やっぱり話したくて」という旨を伝え眉を下げた神鷹。堪らなく嬉しかった。

それからというもの、ライブの後に家で密会するようになった。やはり最初こそは家に上がることを躊躇ったけれど、ちょうど寒くなってきたことも相俟って風邪をひかれては困ると説得した。そしてライブがないときにも訪れるようになり、気づくと週に一度、多いときは二度は来るようになった。

だからといってなにをするでもなく、ただ隣にいてテレビを見たり会話をする程度。神鷹は私の前でマスクを取るのを嫌がるので食事どころか出したコーヒーにも手をつけなかった。次第に飲み物を出す方が彼にとって気を遣わせるのではないかと考えるようになってから、神鷹が来てもなにもしないことが彼のためになるらしいと悟った。
そんな男が過ちを犯すわけもなく。一人暮らしの女子大生の家にいるというのに私の覚悟など露知らず、神鷹はなにも手を出してこなかった。
拍子抜けすると同時に、稀に見る堅物っぷりに更に愛しく想う。恋心を自覚した私に怖いものはない。想うだけなら自由だ。惚れた男が神鷹でよかったと心から思った。

はずなのに。

欲に限界はないのだと実感するようになるのにそう時間はかからなかった。当然である。好きな男が隣にいてなにも思わないような少女じゃない、私もとっくに成人を迎えた女だ。その体温を欲したってなにも可笑しくない。女がそう思うことをはしたないという方がどうかしている。
こうして二人でいられるだけで、私しか知らない神鷹を一つずつ知ることができるだけで幸せだと思い止まる反面、その無駄のない体にすがってしまいたいという欲は沸々と沸いてくる。神鷹の全てを知りたいと、思ってしまう。

その欲が抑えられなくなっただけだ。

今日も家に寄ってくれた神鷹は、いつものように二時間ほどで腰を上げた。「そろそろ帰る」と伝えた神鷹をいつものように玄関まで見送る。「俺が帰ったらすぐ鍵を閉めるように」と神鷹に言われてからはいつもそうしている。そしていつも私が鍵を閉めるのを確認してからアパートを後にしているのも、知っている。
時々ずるいことを考える。鍵を閉めさえしなければ神鷹は、ずっとそばにいてくれるのではないか。
だけど扉越しにその静かな息遣いを聞いていると躊躇ってしまっていた。だから。

ドアノブに手を掛けた神鷹の反対の腕を掴んだ。神鷹は不思議そうに私を見下ろしていた。咄嗟に出た手に自分でも驚いたけれど、欲が遂に限界を迎えたのだとあっさり理解した。

「あのさ、」

はしたないことだとは思わない。だけど口にするのはやはり憚られる。それに私は神鷹のことを好きでも神鷹は?私のことを、どう思っている?だけどもしどうも思っていないのだとしたら。ならば変にこれからを期待するより報われないのだと思い知った方が私も楽だ。神鷹だって私がそういう目で見ていると知ったら、興味のない女の家に来ることはしないだろう。
この辺りでハッキリさせたっていいじゃないか。
決意が固まった。もうあとには退けない。

「今日、泊まっていかない?」

さすがにこれならいくら神鷹でも気付くだろう。彼は目を見開いていた。暫く沈黙が二人を包む。やはり言わなければよかっただろうか、後悔は波のように押し寄せてきた。
沈黙の中、目を閉じた神鷹がふっと笑った気配がした。空気が和らぐのと同時に、今度は私が目を丸くする番である。

「(今日は帰る)」

再度そう告げた神鷹に肩が落ちるのを感じた。落胆もある。だけど言い出したのは自分のくせに、実際にそうなったときのことを考えるとやはり少しだけ、怖い。もう今のように会えなくなる気がして、怖い。

「(次来るときは、泊まれるようにする)」

優しく目を細めながら紡いだ手話を理解すると同時に、頬に熱が集まるのを感じた。先にけしかしたのは私だ。それなのになんて間抜けな。
そう思ったのはなにも私だけじゃないようで、神鷹もまた小さく笑っていた。その穏やかな顔がゆっくり近づいてくる。ほんと整ってるなあ、なんてぼんやり眺めていると、マスク越しの唇が額に降ってきた。
驚きで、思わず目を丸くする。
かさりと音を立てた布が離れると大きな手が頭を撫でる。呆然とする私を見下ろして、小さく手を振るとそのまま出ていった。

なに、今の。

閉まった扉を眺めて腰が抜けていく。ずるずるとその場にへたり込むと頭を整理した。
神鷹があんなことをすると思わなかった。そして彼は“次”のことを話した。次に神鷹が来たとき、私は彼と一夜を共にするのだろう。
私が鍵を閉めるのを確認しないまま去っていく足音を思い出して、彼もまた余裕をなくしたのだろうか、と胸が締め付けられる。同じ気持ちでいてくれたのだろうかと嬉しくなる。


そんな幸せを感じた夜からは、長かった。
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