帰宅部の私が三年生の教室に赴くという暴挙に出たのは今日がバレンタインだからである。しかし足は思うように動かず、廊下の端でその人が通るのを今か今かと待ちわびている。端から見たら変人、そんなのわかっている。
だけどその例の人はなかなか通りかからないどころか廊下に出てくる様子もない。もうすぐ昼休みが終わってしまう。焦る気持ちを抑えつつ、固唾を飲んで見守っていると。

「誰か呼ぼうか?」

後ろから声を掛けられ思わず背筋が伸びた。それもそのはず。その声はまさに私が待ちわびていた人のものだったからだ。

「さ、澤村先輩……!」

はくはくと言葉を紡ぐと、名前を呼ばれた澤村先輩は目を丸くした。話したこともない後輩に名前を知られているだなんて、気味が悪いと思っているかもしれない。だけど今更撤回もできない。

「あ、うん。俺のこと知ってるんだ」

しかし澤村先輩はそんなこともなく、驚いた様子だったけどすぐに穏やかな笑顔を向けた。ああそんなところがかっこいい。きゅうん、と締め付けられる胸と話せているという事実を噛み締めたくなったけれどすぐに意識を取り戻す。私がここに来た目的を果たさなければ。

「あ、あの」
「ん?」

言わなければいけないのはわかっているのに、言葉はなかなか声になってくれない。そうしているうちに昼休み終了のチャイムが鳴る。ちらりと澤村先輩を見上げると、優しい眼差しで続く言葉を待ってくれていた。ほんとかっこいいなあ、と場違いなことを思う。五限開始の本鈴までに戻らなければいけない。意を決して行動に出た。
抱えていた包みを先輩に押し付ける。言葉は出なかった。

「あ、ちょっと!!」

澤村先輩の声を背に教室まで駆け出した。なんて一方的な渡し方だろう、本格的に気味悪がられただろうな、と唇を噛む。意気地無しの私の恋は虚しく幕を閉じた。先輩はあと数週間で卒業するのだから、せめて最後にあんな気持ち悪い思い出作らなきゃよかった。先輩に想いを伝えたいという私のしょうもないエゴで、バレーに懸けたキラキラとした先輩の青春を塗り潰すようなことをした自分を心底恨んだ。午後の授業は頭に入ってはこなかった。

HRを終えてぼんやりと教室を出る。今日はバレンタインだ。きっと顔を上げたらそこかしこにカップルがいる。今はなにも見たくない。俯きながら生徒玄関を抜けると「あ、いた」と声を掛けられた。悲しいくらい、その声を忘れられなくて思わず足が止まる。だけど相変わらず顔を上げることはできなかった。

「昼休みの、だよな?」

近づいてきたその足音に、つい脱兎のごとく逃げ出そうとしたものの。

「もう逃げんなよ」

あんなにも焦がれた澤村先輩の手が私の腕を掴んだ。結局逃げることは叶わなくて、仕方なく小さく頷いた。

「あれってさ、俺に、でいいんだよね?」

言葉を詰まらせるも、また頷く。澤村先輩が息を飲んだのがわかった。続く言葉はなんだろう。期待は微塵もしていないけれど、その代わり傷つく準備はできていた。

「そっか……」

それきりしばらく黙ってしまった澤村先輩。いっそ一思いに振ってくれたほうが気が楽だ。先輩がそんな人じゃないのはわかっているのにそう思う。なのに。

「一緒に帰ろうか」

思いもよらない一言に顔を上げると、先輩は頬を赤く染めていた。うそだ。こんな都合のいい展開。まばたきを忘れて先輩に見入る。

「まだ君のことよく知らないし、返事のしようもないからさ」

ああ、もう。先輩はなんでそんなに優しいんだろう。泣きそうになっている私に、先輩は更に追い討ちをかけた。

「それと、さっき逃げられたから言えなかったけどありがとう」

にっこり笑った先輩に涙腺は堪えきれずに涙を溢す。慌てた様子の先輩に「あ、すみません、違うんです」と誤解を解いた。

「まあ、とりあえず歩きながら話そうか」

苦笑しながら学ランの袖でぐしぐし拭ってくれた先輩の隣を追いかける。こんな日が来るなんて思わなかった。先輩がやっぱり優しい人で、本当によかったと思った。

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